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《映画日記12》 濱口竜介『寝ても覚めても』、森達也『A』、アンゲラ・シャーネレク『はかな(儚)き夢』、ほか
(見出し画像:濱口竜介『寝ても覚めても』)
《映画日記12》は
《映画日記11》三隅研次作品、ブルンヒルデ・ポムゼン、ほか
の続編です。
この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
また、地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。
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濱口竜介『寝ても覚めても』(2018)
『寝ても覚めても』についてはすでに書いたことがあるけれど、アフォリズムのように、イメージの断片を思うがまま書いてみたい。
(*)本作を見ながら新聞の尋ね人欄のことを思い出した。「お願いだから、声だけでも聞かせて」、という女性の声。これは最後のラブレターなのだと思った。朝子の声をこの独白に共鳴させてみた。
(*)ひとりの女が悲劇の事後を思わせるコンクリートの防波堤を登る。そして女の正面のショット。もうそれだけで女は海を感じているのだと私は思う。儚いけれど、なんと美しいショットなのだろう。映画が終わったいまも歩きながらそのシーンを思い出している。
(*)ひとりの女とは朝子のこと。朝子の正面のショットに、寺山修司が初期に詠んだ歌「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」(「燃ゆる頬」森番から)が共鳴するのを感じた。
(*)携帯を捨てるふたりの現在時制。ひとりは現在を捨て、もうひとりは過去を捨てるということ。そのどちらも、もうひとつの過去を再生させるために。
(*)朝子は牛腸茂雄の写真に何を見ようとしたのか。被写体と牛腸との親密さなのか、それともその親密さへの自己の反響・共鳴を見たのだろうか。そしてこの映画を見る私も、朝子と麦、そして朝子と亮平との親密さと私との反響・共鳴を見ようとしているのだろうか。
(*)フランスの映画批評誌Cahiers du cinémaに『寝ても覚めても』のレポートが掲載されていた。その中に、濱口監督の東北記録映画三部作の解説があった。濱口作品との出会いのなかったフランスの観客への濱口作品との邂逅を誘う文なのだと思った。だが、『寝ても覚めても』を見てそうではないと理解した。それは、『寝ても覚めても』に欠くことのできない、その陰影としてあるのが東北記録映画三部作なのだと分かったのだ。
(*)清原惟『わたしたちの家』、濱口竜介『寝ても覚めても』の物干し竿のシーン。「洗濯物をパンパンと叩くと皺にならない」と教える少女セリの母・桐子あるいは栄子。これは先達からの知恵なのだが、同時に、日本映画のDNAでもある。
(*)思いつくことをいくつか書いてみたが、映画が始まってしばらくの間、作品の中に入っていけない自分に苛立ちを覚えた。それは、少年たちの河川での花火のいたずら、朝子と麦のクラブシーン、ホルモン焼き店でのたわいのない会話のシーンのことである。そのどれもが戯れのシーンなのだが、静かでありながら危うさをも感じさせる磨ぎ澄ました濱口のショットのなかへのこれらの挿入に、私は向けるべき眼差しを見出せないでいた。その苛立ちである。『寝ても覚めても』以前の作品にも食事のシーンやクラブシーンはあった。だが、本作でのそれらのシーンには、濱口監督の弱点が露わになったように感じた。『ハッピーアワー』のクラブシーンは物語を変奏させる核心的なショットであると確信させた濱口竜介であったのに、『寝ても覚めても』での弛緩したショットのつまらなさ。そしてキスのシーン。『ハッピーアワー』でもキスシーンは素晴らしかったのに、本作のキスシーンのぎこちなさ。キスがぎこちないのではない。幾度もキスは交わされるのだが、そのショットのぎこちなさのことだ。ホン・サンスや三宅唱ならもっと上手く撮っただろうに、と私は苛立ったのだ。
(*)とはいうものの、濱口の正面のショットのなんと美しいこと。私はそのショットのなかに、すべてを了解したいという衝動を覚えた。その美しさとは、亮平と朝子の、私には聞こえないふたりだけに共鳴する波の音の、ふたりの眼差しに不意に溶け込むショットの美しさのことだ。
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(*)濱口竜介を再考しようと思う。
たとえば『PASSION』を思い起こしてみる。内力と外力。人の行動はそれら二つのベクトルから成ると、とりあえず考えてみる。外力は他者なのだが、内力は自己でありながら、必ずしも自己と同一ではないという矛盾。ときには自己に非・従属と思えることもある。内力はたえず外力の脅威に怯える意識を纏っている。では、外力とどのような関係があるのか。『PASSION』の場合、外力を都市という巨大なシステム、内力をマンションの室内という外から隔絶された世界のことだとする。人を好きになるということ、それは内力なのか外力なのか。それはキスという行為、性という行為、あるいは暴力という行為へと繋がる。それはなにゆえに繋がるのか。内力とは、外力による情動ではないのか。愛という関係、その関係性が持続するのはどのような力によるのか。恋愛感情のもつれと繊細だが激しく変化するさま、関係性の崩壊と再生、それは『PASSION』冒頭の男たちと女たちの再会から始まったと理解する。
さて、ここで、都市のショットと授業のショットを省略し、マンションの三つの室内のみのショットで構成したならば、密室の心理サスペンス劇の映画になるだろうか、と思った。だが、早まるな! 非密室としての都市はあらかじめ存在するのであり、トーラスをより動的にしたトポロジーにおけるクラインの壺構造(下図参照)としてのいまひとつの密室としてもあるのではないのか『PASSION』は。
冒頭のタクシーの車窓越しの都市の夜の風景と窓に叩き付ける男の手のショット。緩やかに流れる都市の夜景は、ここで一瞬切断される。そして俳優の表情を捉える繊細な短いショットとラストの長回しによる朝の埠頭。それに続く室内のふたりの俳優を捉える正面ショット。それらはともに美しい。
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映画『A』についてのいくつかのこと
森達也『A』(1998)
タイトル「A」は、荒木(Araki)のA、オウム(Aum)のAに由来するとされる。
森達也監督はワイドショー製作をテレビ局と契約していたが、撮影から1ヶ月後に契約を解除される。1996年1月に契約した共同テレビジョン(フジテレビ子会社のテレビ制作プロダクション)からも8月に契約を打ち切られたという。
考古学に「もつれ」という用語がある。考古学(発掘されたモノ)はそれが属した地層に還元すべきなのだが、現状は、発掘にたずさわった人や学者、費用、考古学に関係する組織など、あらゆる要素の網目=「もつれ」という、社会的な紐帯のなかにあるという。そして、「もつれ」た状態を漂白しないまま私たちに見せようとする。オウム報道も考古学の現状と同じく、「もつれ」の中にあった。
映画『A』が見せたものは、メディア報道の露骨な「もつれ」である。その「もつれ」を生み出そうとしているのはメディアだけではない。政治・警察・市民という日本社会も同じ「もつれ」としてある。そのような社会が現在も続いていることの恐ろしさのなかに、私たちはいるのだ。
そんな「もつれ」に苛立ちを感じながらも、観客の多さが多少の救いだった。公安がオウム信者に恣意的に接触し転ぶという滑稽さ。公安は「イタイ、イタイ!」と叫びながら信者を公務執行妨害で逮捕する。このシーンは観客の失笑をかっていた。このような愚かで滑稽でしかない公安にも民主主義の未成熟さが露わになっている。だが、そのシーンよりも、このような愚かで滑稽でしかない公安にも民主主義の未成熟が露わになっている。だが、そのシーンよりも、私の興味を惹きつけたのは、一橋大学法学部ゼミのシーンである。学生が投げかけた二重の「欲求」についての質問「あらゆる欲求から解放されたいというのも欲求でしょ。それはいいんですか?」についてである。強度な欲求は暴力を生み出すことがあるため、欲求は抑制的でなければならない。そのことへの反駁としての質問である。
この場合の「欲求」は階層化された欲求なのだが、学生の質問には階層としての構造認識はあるのかという問題である。学生の論理ベースは形式論理だと思うのだが、階層化された論理構造で議論すべきところを、単層に還元していることに、学生の問いの根本的な欠陥があるように思えた。階層への射影により、仮に単層で論じることができたとしても、形式論理の不完全性はゲーデルが1930年に示しており、はたして学生の質問に有効性はあるのか、という問いである。それには、多値論理や様相理論への拡大を必要としているのかもしれないのだが、宗教にはそれすら有効性が見出せないようにも思う。なぜなら、宗教と社会(もしくは個人)の成す構造がはらむ抜き差しならぬ問題が、私たちの思考に織り込まれているからだ。有効性のあるより裸形の論理、あるいは論理でないもの、論理を超えるものを必要としているように思えた。
本作を見る数カ月前、死刑判決を受けたオウム真理教信者全員の死刑執行がなされた。西日本大豪雨で日本中の眼差しが一点に集中するどさくさに紛れての死刑執行だった。その日、私の映画日記には次のような記述がある。
1995年の夏、フランスでふと手にした《Le monde diplomatique》の見出しに「壊れゆく日本」とあったのを思い出した。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件のことだ。そこに書かれてあったのは事件という表層ではなく、日本社会が抱える病理という深層だった。 本日、サリン事件に関与したオウム真理教信者の死刑執行があった。死刑執行という表層では何も見えない。本質を覆い隠そうとするだけではないか。病理の解明なくして終わりはない。もちろん始まりも。
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森達也『A2完全版』(2015)
『A2』製作は2002年。『A』の4年後の作品である。本作はその完全版というが、『A2』を見ていないので比較はできない。
印象的だったのは、地域住民との対立とともに、時間の経過による融和が捉えられていることだ。排除の対象であったオウム信者が、理解という論理を超えた融和へと向かう。その状況変化のなかで、マスメディアの思考は右翼の思惑とそれほど変わることはなく、次第に社会からズレていく。そのことが映像に立ち現れていて興味深い。
PSI(Perfect Salvation Initiation完全救済イニシエーションに使用するヘッドギア)を装着し、絶えず虚ろな目をした荒木浩が印象的である。森達也はマスコミ報道の画一的なストーリー性に触れながらも、結果的に時代の変節を招くことになったオウムによるサリン事件の責任を荒木たちに問いかけるシーンで映画は終了する。
映画を見た印象としては時代を覆うモヤモヤ感なのだが、一体、これはどこから来るのだろう。それは映画内で批判されるマスメディアの空虚感は言うまでもないが、世界は至る所疎であるとともに稠密でもあるはずなのに、私たちは、現代日本社会を、あたかも均質(これは空虚ということでもある)な空間であるかのように世界を捉え、不意に出現した特異点としての重力を偽装(メディアによるフィクション生成)しようとしていることによるのではないだろうか。『A2』製作から13年経過した完全版は、オウム事件は未だ収束していないのにもかかわらず、死刑執行による事件の終結を画策した政府の世論操作への危機感、その警鐘としての上映なのかもしれない。
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七里圭作品
七里圭作品についての論考を書く。2万字くらい。タイトルは「いまひとつの亡霊」。推敲してから発表したい。いつのことになるやら。
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飯塚健『榎田貿易堂』(2017)
過去を背負うことの重さを映像として濃厚に滲ませたのが旧世代だとすれば、ある種の軽さを伴ったとりあえずの選択としてやり過ごすことを習得したのがバブル以降の世代なのかもしれない。
モールス信号から轢殺の刑へ変位の屈託のなさ。それは軽さ以外のなにものでもないのだが、それを可能にするのは俳優・渋川清彦なのだ。
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アンゲラ・シャーネレク 『はかな(儚)き道』(2016)
シャーネレク作品はコンテンポラリーダンスである。
フレーム外の音に耳を傾けること、身体の物語の叙述ではない簡潔なイメージに眼差しを向けること。映画とは、このような聴覚と視覚の快楽のことであると、シャーネレク作品は述べているかのようだ。シャーネレク作品をコンテンポラリーダンスと思ったのは、おそらく、映画を見る者の耳と眼の、このような振る舞いを、作品は要請しているのだと思ったからだろう。シャーネレク監督が京都に来たとき、「あなたの作品はコンテンポラリーダンスを見ているような気がするのですが」と質問したことがある。監督は、「ケネス役のトアンビョル・ビョルンソンはミュージシャンで、テレーズ役のミリアム・ヤーコブはコンテンポラリーダンサーである」と教えてくれた。音と身体イメージの簡潔さ、これは、キャスティングも含め、シャーネレク作品の基底となっているのかもしれない。
私は彼女の作品についての論考を書きたいと思っているのだが、そうたやすくは言語化させてくれない作品ばかり。それは私の知力に起因するのか、それとも、彼女の作品の音とイメージがアプリオリに非言語的であるからなのか。おそらくその両者が、言語化の一歩手前で私を立ち止まらせているのだろう。ここでは、本作の冒頭を時間軸に沿って叙述するにとどめ、その先はやがて言語化できるであろうと、夢想のように先延ばしにするにする。
昼。虫の声の持続。女がいて、男がいる。
女は靴の紐を結んでいるのだろうか、フレームには上半身のアップ。つづいてなにかを(おそらく女を)見つめる男の顔のアップ。丘を登るふたりの足のアップ。はじめに男(ギターがわずかに見える)、そして女(スカートにサンダルのような靴)。ふたりの名はやがて判明するのだが、女の名はテレーズ、男の名はケネスである。
ケネスはテレーズに手を差し伸べる。丘の上でテレーズはギターを爪弾くがぎこちない。ブルーのリュックにチョコレートの包みを入れ、リュックのなかから帽子を取り出すケネスの手のアップ。つづいて帽子を地面に置く手のアップ。ケネスはテレーズの側に座り、テレーズのギター伴奏でふたりはホークソング(ジョニ・ミッチェルの「サークル・ゲーム」だろうか)を歌う。地面に置いた帽子は通行人がお金を入れるためのようだ。ギリシャの街(アテネだろうか)を見下ろす丘の広場にクリーム色の車体のバスが到着する。乗客は学生なのだろうか、下車する者のリュックは一様に黄色である。ケネスの帽子にお金を入れる人々の手と帽子のアップ。その間、ホークソングはオフ・ヴォイスとして続く。
映画の始まりはとてもシンプル。身体の振る舞いのアップと持続する音。それ以外になにもない。だが、不意に何かが舞い降りたかのように、ギリシャの青空に垂れ幕が風にたなびく。書かれている文字は明確には捉えられない。おそらく「EYPΩΠH NEW EUROPE」と書かれているのだろう。垂れ幕は舞い落ち、それを追いかけ回収する3人の女(そのなかにテレーズがいる)がいる。
一台の車がフレームに入り、拡声器から女の声でギリシャ語による演説が流れる。
ギリシャは新時代へ、ヨーロッパは新しい時代を迎えようとしている。間もなく行われる欧州議会選挙は、ギリシャ国民が欧州の取るに足らない一部であり続け、多国籍企業や独占企業に属することを望むかどうかを示すだろう。それとも、今後何年にもわたって欧州の行く末を左右する新たな声となることを望むのか。
これは1984年6月17日の欧州議会選挙のことなのだが、シャーネレクは政治的映画を撮ろうとしているのではない。時間をさりげなく折り込むのだ。
テレーズがいて、ケネスがいる。
ケネスの電話のショットがあり、演説の音が消える。ケネスが帽子を落とすと、そのこと気づいたのかテレーズは立ち上がる。そして倒れるケネスと背後から支える男。ケネスの胸のショット。様子を見つめるテレーズのバストショット。ワゴン車の後部の扉が開けられ、その中に男と女が4人。彼らは同一方向の視線でなにかを見つめている。ここでも虫の声が持続している。
ここまでオフ・ヴォイスはあったものの、登場人物の会話はない。物語るとは、このような振る舞いの簡潔なショットと持続する音声のことである。
アンゲラ・シャーネレク『はかな(儚)き道』予告編(ドイツ版)
シャーネレク作品論を書けるのはいつのことになるのだろう。私が書くということなのだが、私は待ち遠しい。
《映画日記13》
に続く
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
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