《映画日記21》 アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール/スコリモフスキ/ソクーロフ/ほか
(見出し画像:『あまねき旋律(しらべ)』)
本文は
《映画日記20》染谷将太/アドルノ/ワン・ビン/三宅唱/ほか
の続編です。
この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。
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ドキュメンタリーのはじまり
ドキュメンタリーのことを考えていたら、数年前に書いた文を思い出した。とあるドキュメンタリー作品を撮った監督に、はじまりは「どこから」と問うたとき、「どこからでも」、と答が帰ってきたことだ。そのとき、「どこからでも」という返答に戸惑いを覚えた。すでに〈在った/在る〉ものを対象とするドキュメンタリーに、はじまりと終わりはあるのか。確かに、どこからはじまってもどこで終わっても私という生は既に在りこれからも在るのだから、そこにはじまりと終わりを設定するのは、〈在る〉という事態に切断を施すように残酷な行為のように思われる。だから、よくよく考えてみれば、「どこからでも」とは意外でもはぐらかしでもなんでもない。映画とは本来的に「どこからでも」なのだ。たとえはじまりであっても、映画においては切断=ショットがあり、切断がなければ映画にはならない。はじまりでも、中盤でも、はたまた終わりでも、それらはすべからく時間の中断として呈示されるのが映画である。「どこからでも」とは時間の中断=ショットであり、すべての中断=ショットは平等なものとしてあり、それが映画の倫理なのだ。そう考えれば、はじまりは「どこからでも」なのである。だが、それでもなお、ドキュメンタリーのはじまりとは何か、という問いが頭を離れない。
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鈴木卓爾『ゾンからのメッセージ』(2018)
フィルムは腐食するものなのだ。腐食が途方も無い事態を生成しそれをとりあえずゾンと呼んだりもするけれど、たとえ七色の谷を越えたところでフィルムの美しさにたじろぎはするものの、その地には決して到達できるものではない。ゴッホの空のように狂おしくも美しさの映画である。
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アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール『あまねき旋律(しらべ)』(2017)
*インド東北部、ミャンマー国境付近に位置するナガランド州。村の信じられないほどの急な斜面に棚田が広がっている。機械が入らないため、村人たちはグループを作り棚田を耕し、ひとりが声を発すると、それに続いて他の人も声を発し歌となる。
*たとえば女性も男性も一緒になって掛け合いながら歌われる「リ」と呼ばれる歌。「リ」は南アジアの音楽文化では極めてまれなポリフォニー(多声的合唱)だという。
*ナガランドとは「ナガの土地」という意味なのだが、土地のしらべは心地いい。それはモンスーン特有のしらべで、大気を満たす水分のように私の身体を潤した。彼らの相互扶助は〝結〟に似ている。〝結〟でむすばれた村人たちの発する声の掛け合いは棚田に響きわたり、〝其方〟と〝此方〟が呼応し合いながら大気に溶け込んでいくようだ。これが稲作民のしらべなのだろう。
*日本の作業歌や民謡には、仕事のつらさや生活の苦しさを歌う、いわば体制補完的な歌が多いのだが、本作では、愛を歌ったり呼びかけたりと、他者へと向ける身体からの声であることに驚きと新鮮さを感じる。それが「kho ki pa lü 上へ下へ斜めへ」ということなのだろう。
*本作に日本との親和性を覚える。それは、フレーム、つまりショットに湿度があるからだ。その湿度が上へ下へ斜めへ溢れ出てくるのだ。
*〝結〟とは沖縄文化(注1)でも見られる相互扶助ということなのだが、それは身体の相互拠出に基づく互酬性社会ということである。身体の相互拠出により、農耕作業を円滑に行う身体文化。それは狩猟民にはない、モンスーン稲作民特有の習俗である。「ナガの土地」においてもその例外ではない。だが同じ農耕作歌であっても、日本の作業歌と違い、身体性が際立っている。それは、たとえば台湾の原住民(注2)における身体性と似ており、農耕作業における身体のリズムがダイレクトに声として現れる。声の掛け合いや、土地の霊を呼び寄せるような呼吸による持続音。これは日本の農耕作業歌にはないように思う。調べたわけではないから自信はないが、経験的にそんな気がする。そして、歌で最も印象に残ったのが呼びかけ歌である。山の頂に着いたら「聞こえるか?」と歌う。遠くて聞こえるはずもないがそう歌う。
(注1)那覇空港を起点とするモノレール「ゆいレール」があるが、この名称は〝結〟からとられている。
(注2)台湾では「先住民」ではなく「原住民」と法制化されている。それは、「先」には消滅したという意味があるからだという。
*印象的なショットがあった。村へと続く道に、銃器を肩に担いだインド軍の兵士たちが歩く後ろ姿のショット。兵士たちの背後のショットはしばらく続き、その間、歌も、環境音も、銃撃音もない。音に補完されない剥き出しの映像としてのショットだ。歌に満たされていたはずの集落の、無音のただならぬ事態のショットである。1940年代後半からナガ族はインドからの独立運動を開始した。これに対し、インドは1953年に軍隊を派遣したのだ。
*本作の魅力のひとつに中庸的な挿入ショットがある。くもの巣についた水滴の光に映える朝のショット、山の降雨のショット、教会の光に群がる羽虫のショット。そのどれもが美しく、ある種のブレイクタイムなのだが、欠かせないショットである。
*ポリフォニー「リ」で思い出すのだが、ひとりの鑑賞者が、ひとつの音を基底にしたポリフォニー形式で交差する複数の声に囲まれ、その中心で音を鑑賞するTV音楽番組があった。鑑賞者が、「ある種のトランス状態」に落ちいると述べていた。あれは本作で見られる合唱「リ」だったかもしれない。
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チャン・ジーウン『乱世備忘』(2016)
製作は2016年。日本人にとり、過去時制としての雨傘運動となってしまったかもしれないが、香港社会を撹乱したとして、多くの人たちが収監された。
強大なものと対峙するとき、そこには祝祭を組織しなければならない。闘いの結果が敗北であったとしても、祝祭は次なる祝祭を生み出す。ラッキー、フォン、ユウ、そして2人のレイチェルを見ればよくわかる。19歳のレイチェルがweb上に書いた大学教授への手紙には思考の持続がある。そして、16歳のレイチェルが集会からの帰宅途中、列車内でノートに書き綴るショット。ノートの内容が何であるかは示されなかったけれど、ふたりのレイチェルの思考がwebやノートに綴られ、それが持続する限り、香港の希望としての未来、そして世界への眼差しの広がりを生み出すはずだ。
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イエジー・スコリモフスキ『ムーンライティング』(1982)
スコリモフスキの作品を見たのはわずか3作品。『早春』、『イレブンミニッツ』、そして本作である。たったこれしきの作品でスコリモフスキについて語るのは憚れるが、どの作品も終盤の、核心へと向け加速を増す構成に魅力があるのではと思える。
『ムーンライティング』では冒頭の人を食ったかのような3つのクローズアップで始まり、終盤のスーパーのショッピングカートでの土産荷物の移動とその飛散で終わる。『早春』『イレブンミニッツ』におけるショットの緻密な積み重ねが終盤へと向かわせるのに対し、『ムーンライティング』は途中のスラップスティック的なショットによる補強が終結をより際立たせる。これは80年代ポーランドの、時代の様相がイメージとしてスクリーンに滲み現れてきたのではないかと思えた。
『早春』で見た70年代の〝赤〟は、80年代の『ムーンライティング』でも健在で、本作の場合、時代批評としての〝赤〟の意味合いが濃くなっている。
ところで、スコリモフスキの色の使用、これをスコリモフスキ作品の特質と言ってみたい気がする。私のスコリモフスキ体験は『早春』ではじまり、その鮮やかな色調にすっかり度肝を抜かれてしまったのだが、『ムーンライティング』を覆う色調はロンドンの師走の空のごとくどんよりとして陰鬱。せっかくポーランドからやってきた4人の改築の不法労働職人集団を主人公にしているのだから、壁を鮮やかに塗り替えればいいのにと思うが、これは色調の好みの問題ではないだろう。『早春』では温泉施設の壁を塗装職人が赤く塗り直したのだが、ロンドンではホワイトもしくはアイボリーホワイトの彩度を欠いた色調に塗装となる。ところが、彩度は必ずしも欠いてはいないことが判明する。『早春』の印象的だった赤は『ムーンライティング』では何処へ、と思いきや、それはすでにあったのだ。食料品店の万引き監視員の上着が真っ赤だったし、不法労働職人集団のリーダー、ノヴァクたちが荷物を持ち運ぶ段ボール箱が赤だった。そうそう、ノヴァクが内緒で拝借した自転車の車体も赤だった。ロンドンっ子たちが(共産主義者の)〝赤は帰れ!〟と罵った赤なのに、ロンドンの街は既に赤を纏っていたというアイロニー。さすがスコリモフスキ!と快哉したくなった。
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デヴィッド・ロウリー『ア・ゴースト・ストーリー』(2017)
まず、ストーリーを映画HPから転記しておきたい。
幽霊となったCが、向かいの家に住む幽霊と窓ガラス越しに身振りで会話するショット。それは無音の剥き出しのショットだからこそ、「待ってるけど、それが誰だかわからない」という内部を浮かび上がらせる。なんだか現在の私を見ているようでせつない。これは幽霊のベケットなのだが、待つとは時間の輪廻と消滅でもあるのかと問うているようだ。
音楽だけでなく、環境音もおさえた音響処理が長回しによるショットの美しさを際立たせる。この美しさとは色彩というのではない。おさえ気味の、やわからな色調が発生する空気感で幽霊の孤独感を拾い上げる、その美しさのことである。これが商業映画の中で表現できるデヴィット・ロウリー。
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アラン・ロブ=グリエのDVD-Box注文
Boxに『快楽の漸進的横滑り』も収録されているから嬉しい。20年以上前になるだろうか、この作品をパリで見ている。その夜、『快楽の漸進的横滑り』のリメイク版を夢で見た。私の無意識の、一度っきりの再現不可能なリメイク。つまり、夢のなかで『快楽の漸進的横滑り』を見たのだ。血の観念に囚われた私が主演というお粗末なキャスティングだった(夢の中で、私がプロデューサーなのだからしかたない)けれど、目覚めてしばらく現実に戻れなかった。目覚めたのだぞ、と思うとともに、私の身体は重力をなくしたような気がした。私はここにいてここにいない、意識と身体は分離して、いまだ夢の領域いるのだった。ロブ=グリエ、恐るべし。
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アレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』(2002)
フィルム上映というのでフィルム撮影なのかと思いきや、そうではないような気がする。終盤でカメラがエルミタージュ美術館を出ると海の夜のシーンとなり、海面には幻想的な蒸気が立ち上がる。現実にはありえない光景。フィルムで撮影し、その後、デジタル処理を施したのかとネットで調べると、カメラはソニーのデジタルカメラCineAltaHDW-F900を使用。90分ワンカットで収録することができたのはそのためだという。しかし、ワンカットとはいうものの、映画を見たところ、途中にカットを思わせる不自然な繋ぎがある。オフィシャルと実際には違うと思うのだが、果たしてどうなのだろう。しかしこの場合、90分ワンカットは真実と納得するほうが、「幻想」も増すのかもしれない。
本作はエルミタージュ美術館の300年のトポロジーである。現代に生きる監督が時間を往還するのだが、そのこと自体でトポロジーとなる訳ではない。それをトポロジーあらしめるにはなめらかな連続体としての相を必要とするのであり、90分ワンカットとはそのためにある。終盤に舞踏会のシーンを置いたのは、そのことでなめらかな局面を確認しようとしたのだろう。
本作を見た日、次のツイートをした。この作品が興味深いのは、時間の現働化をおこなうフランスの外交官キュスティーヌ伯爵と時間の具現化をおこなうワンカットカメラの存在という二元性である。そして、舞うかのようなゲルギエフの指揮をする姿も。
《映画日記22》フラハティ / 台北映画日記 / ほか
に続く。
(衣川正和 🌱amateur-kinugawa)