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《映画日記13》 枝優花、小田香、エミール・クストリッツァ、金子修二作品

(見出し画像:エミール・クストリッツァ『黒猫・白猫』)

本文は
《映画日記12》 濱口竜介、森達也、アンゲラ・シャーネレク作品、ほか
の続編です。

この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
また、地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。


再見したいという想い

すでに見た作品を再見したいという想いは作品への特別な興味から生じるからなのだが、その場合の想いとは欲動に近いのかもしれない。欲動といえばフロイトの「快楽原則の彼岸」で提起された私たちに馴染みのある概念。とりたててフロイトに帰着させる必要もないとは思うのだが、うっすらとフロイトを滲ませてみると、欲動とは、人間を行動へと駆り立てる無意識の衝動、と表現すればシンプルだろうか。それは精神と肉体との境界にあり、精神にも肉体にも所属しないのかもしれないし、そのどちらにも所属するものなのかもしれない。いわば、アンビバレントな、自己処理のできないのが欲動である。だから、再見したいという想いは、どうしょうもなく行動することでしか解消できない。だが、再見したからといって、精神と肉体とのバランスが均衡するというわけでもないのだが、再見したという事態、つまり行動の完了形態が、自己にそれなりの平安をもたらすことも事実である。一度見ではいおわり、というのではない再見したいという想いは、なんだかとても面倒なことでもあるのだ。
さて、再見して作品への特別な興味はどのように解消されるのか。たとえば、二度目の鑑賞の方がより理解を増すわとは限らないし、より興味を増すとも限らない。その逆もあるわけで、作品への興味は儚くも霧散し、いったい何に興奮していたのだろうと、自分の鑑賞眼に落胆することもある。

なぜこんなことを考えたのかというと、
枝優花『少女邂逅』(2017)、レナ・ダナム『タイニー・ファニチャー』(2010)
に興味を覚え、再見したいと思ったからである。
再見の結果はどうだったのか。

『タイニー・ファニチャー』は二度目の方がずっと面白く、『少女邂逅』は定型化した少女のイメージを確認したに過ぎなかった、というのが正直な感想である。だが、確認とはいうものの、そこには少女イメージの強度の再認識があり、『少女邂逅』の作品としての否定辞としてあるのではない。
初見ではヒロインの保紫萌香よりもモトーラ世理奈に魅力を覚えたのだが、再見では保紫萌香の演技、というか、身体のありように惚れてしまったのだ。保紫萌香が演じるミユリ(未百合という意味か。だとすれば、モトーラ世理奈が演じる富田つむぎとの関係性をうかがわせる絶妙なネーミングである)の人間としての存在感の薄さ(俳優としての保紫萌香の存在感のことではない)、それは「ミスiD2016グランプリ」美少女・保紫萌香というアイコンの薄さとも重ね合っていて、その薄さとは、モトーラ世理奈・富田紬の体現としてある蚕(無痛症)→繭→絹糸の薄さとは違った、繭になるのかもあやしげな存在の薄さ、ということである。そんな薄さの表象として呈示した保紫萌香の演技・存在に惚れたのである。そして、蚕と絹糸の中間項である繭の自他未分を見事に体現した保紫萌香にも、という意味においてである。初見における保紫萌香の俳優としての存在に、理解を超えた、私を揺るがすものがあったのだ。それは何なのか、ということを確認したい衝動に駆られたのである。
保紫萌香は『少女邂逅』上映時の芸名であり、現在の芸名は「穂志もえか」である。
下記webは再見以前に書いた《映画日記8『少女邂逅』》短評です。よろしかったらお読みください。

『タイニー・ファニチャー』はマンブルコアの作品なのだが、私にとりマンブルコア作品は“受容/反受容”の振れ幅が大きい。同作品と同じマンブルコアの映画、ジョー・スワンバーグ『ハンナだけど、生きていく!』(2007)については《映画日記11》に書いている。本作は私の“受容”作品であり、興味のある方はお読みください。
私の“受容”作品ではない“反受容”作品とは、作品として優れていないという断定ではなく、ただ単に私には共感できない、もしくは私の理解を超えているという区分であり、否定辞用語ではない。


小田香『風の教会」

小田香が監督した短編「風の教会」をYouTubeで見る。
安藤忠雄が設計を手がけた神戸・六甲山上にある「風の教会」の修復工事のドキュメンタリーである。2018年8月修復完了。修復前の状態から生まれ変わった「風の教会」である。
教会の表面を丁寧に撮る。そこにあるのは光に満ちた世界。光が物質になり、物質が光になる。小田香監督のいくつもの作品を思い起こした。物質性を光に変容する魔術師としての小田香監督。たとえば『色彩論 断章』(2017)、『鉱ARAGANE』、『FLASH』とか…。
『色彩論 断章』(2017)について述べるならば、ゲーテ『色彩論』を拾い読むのもいいかもしれない。東洋は遠い昔から世界をモノクロのグラデーションとして捉えることを知っていのだが、写真術発明以前の西欧ではどうだったのだろう。ゲーテは自然を愛し、環境の整った実験室の作り出す光からは距離を置いていた。彼は「色彩というのは眼という感覚に対する自然の規則的な現象」と述べる。この場合の眼とは、光の分析を経由した網膜の情報処理のことではない。もしかすると、東洋的な、モノクロのグラデーションとしての明け方の空を背景にした、窓の十字の桟にそれを見出していたのではないだろうか。小田香の「風の教会」は、そのことの体現としての光を捉えている。それは、目が色彩を学習する以前、未だ元素として浮遊する光の運動を見ているようだ。ホセ・ルイス・ゲリンの『夜の列車』を思い出してもいいだろう。それは、フィルムが光を受光したというよりも、光によるフィルムの腐食した跡でもあるのだ。


エミール・クストリッツァ『黒猫・白猫』(1998)

クストリッツァ作品を見るのは2度目である。数ヶ月前、幸いなことに『アンダーグラウンド』完全版(314分)、しかも、《爆音映画祭》で見ている。
それ以前にも見ているような気がしたので過去の映画日記を調べると、「クストリッツァ・オールナイト」の前売り券を購入していた。ところが、台風接近ということで断念。オールナイトは決行されたのだろうか。上映されることの少ない監督の特集を見逃すなんて!と改めて思う!

前作『アンダーグラウンド』が一部で〝プロパガンダ〟との批判を受け、引退宣言したクストリッツァ。そんな彼が起死回生をかけ製作したのが『黒猫・白猫』である。それまでのスタッフを排し、撮影に名手ティエリー・アルガス、音楽にバンド〝ノー・スモーキング〟のネレ・カライチを起用。作品のHPに、「ドナウ川のほとりにある町を舞台に若者ザーレの恋、ザーレと父とヤクザが企む列車強盗、ザーレの祖父とマフィアの友情等、三世代の物語が入り乱れるヒューマン・コメディー。『カサブランカ』(1942)をはじめとした、アメリカ映画への憧憬と高い芸術性が見事に一致した至福の名作。」とある。

ラテンアメリカ文学が日本で盛んに紹介されたとき、多くの日本人(もちろん私も)がそのカオスのような世界に驚愕・熱狂したのを記憶している。筒井康隆が、ラテンアメリカ文学を「カオスなのではなく、日常なのだ」といった趣旨のことを述べていた。『黒猫・白猫』はラテンアメリカではないが、まさしくカオスに満ち溢れた日常を描いている。日常そのものが祝祭として裏打ちされたカオスなのであり、そんな社会で唯一信じられるのは、喜びと快楽がなければ人生じゃないということである。彼の作品には善と悪の二分法ではない、生と喜劇とが同値である世界へのオマージュ、人間賛歌を見ることができる。そのためにはカオスが日常に浸透していなくてはならない。クストリッツァはそんなことを本作で描こうとしたのだ。
本作に頻出する楽隊。彼らの炸裂する演奏を《爆音映画祭》で見たい。


運動の持続と切断、これをいかに構成するのかがショットなのだろう。人生には死以外にショト(切断)はないというのに、眼前にショットがあり物語を生み出すという事態に思わずたじろいでしまう。そんな不条理が映画なのだ。とするならば、映画と呼ぶに相応しいのはストローブ=ユイレだけかもしれない。


金子修介『1999年の夏休み』(1988)30th Anniversaryデジタルリマスター版

山と湖に囲まれ、世間から隔離された全寮制の寄宿舎で共同生活を送る少年たち。どこかに既視感がただよう世界なのだが、それは私が中学生だった頃、家人の眼を盗み、ひとりで見たテレビ放映のドイツのモノクロ映画だ。家族が寝静まった深夜映画。タイトルは忘れしまったが、森深くにあるハイリゲンシュタットの湖畔にある寄宿舎の物語だ。夜中に寄宿舎を抜け出し、湖面をボートを浮かべ向こう岸の城に少女を訪ねる物語だった。10歳代前半の私には、見てはいけない世界を見てしまったという罪悪感とともに、体験したことのない、もしくはその後も体験しないかもしれない世界を誰とも共有することはないだろうという悦びがあった。金子修介『1999年の夏休み』は、まさしくそのようにしてある作品といえる。

監督によると、萩尾望都『トーマの心臓』(1974)の異国の美しい少年愛の物語世界に触発されながら、彼ら少年たちが少女に見える瞬間に興味を覚え映像化。1999年とは、夏休みに寄宿舎に残された少年たちを少女が演じる世紀末の「近未来」の映画ということのようだ。人を好きになる瞬間とは〝性〟を超越した永遠であるかのような〝時間〟と〝空間〟のこと、それを作り上げたという。

萩尾望都『トーマの心臓』を読んだことがある。少年でありながらも少女の眼差しという、わたし…というよりは男子一般…には入り込めない世界でもあり、現在のBLものを先取りした少女マンガだったように思う。原作のストーリーの詳細は覚えていないが、『1999年の夏休み』は原作のベース部分、性を超越した少年愛や寄宿舎特有の空間・時間も含め、ほぼ踏襲しているように思えた。岸田理生による脚本の魅力もさることながら、欧州のギムナジウムの寄宿舎を日本の湿度に転位させた映像は特筆に値する。そして様々な映画的仕掛けの魅力に溢れていた。
室内のカーテンは白く、室内に吹き込む風にカーテンは揺れ、風は得体の知れない不穏な空気を室内に忍び込ませ、薄明の湖は美しく、そこでのキスも美しい。そして時計は怪しく運命を刻む。そのように、アプリオリに世界を了解するのが映画なのであると、『1999年の夏休み』は告げているようだった。

《映画日記14》ゴダール『勝手に逃げろ/人生』、ドゥパルドン『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』、ほか
に続く

枝優花『少女邂逅』予告編

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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 amateur🌱衣川正和
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