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Moldy bread

 弟が死ぬ。まだ、死んではいない。けれどほとんどもうそんな状態だ。最期のときがまもなく訪れようとしているのが傍目からでもわかる。体の一部は溶け、ジュクジュクと肌が濡れている。俺自身の体も弟から移ったこの病魔によってどんどん冒されているのがわかる。ただ呼吸をするだけでも苦しい。空気がひたすらに重い。暑い。鈍って朦朧としてくる意識になんとか縋り付くことで生きながらえている。どうしてこんなことになったんだろう。

 前は良かった。まっ暗でとても寒い場所だったけれど、空気はずっと澄んでいて、他の姉兄もみんな一緒に寄り添っていられた。それがいつからか二人ずつ消えていって、俺と弟だけが残った。残された寂しさはあったけど、二人とも元気で、永遠の命さえ手に入れたような、そんな全能感に満ちていた。肌は健康的に乾燥していてすべすべと柔らかかった。どんなものにだってなれる気がしていた。希望に満ち満ちた世界の中でいつか姉や兄のように旅立つであろう”あの”真っ白な日を心待ちにしていた。
  なのに。なのに、ずっと憧れていた世界はあまりに退屈だった。はじめは明るいところでひたすら変身の時を待った。誰かの活力になれる日を、生まれ変わる日を待っていた。しかしふとした拍子に暗い谷底へ突き落とされてしまった。弟も一緒だったが、二人とも、もう何者にもなれないことを悟った。だって誰も俺らのことなんて知らないようだったから。気にかけてくれる者はいなかった。俺らはもう”なかった”ことになってしまった。
  なあ、聞こえるか。見えないか。気づいてくれないか。忘れてしまったのか。もし、そうなら、どうか、どうか思い出してくれないか。俺たちはずっとここに置き去りのままだ。薄暗くて、狭くて、じめじめと暑苦しい。変わり果てていく弟の姿を見るのが辛い。だって、俺だっていつかは、あれは、俺の未来の姿なんだ。
  ああ、まだ思い出してはくれないんだな。弟は完全に死んだよ。おれの体も少しずつやわらかく、つぶれてきた。まっすぐ立てなくなってしまった。いたみはないけれど、ひたすらに気持ちが悪い。最悪の気分だ。なんだか目の前がぐらぐらしてるんだ。死ぬのは、こわい。でも、わかる、おれは、もう、死ぬ。お前のせいだよ。お前がおれたちのことを忘れるから。お前がおれたちを求めたのに。おれたちは、こうなるために、生まれてきたわけではないのに、おまえのせいで


 男が亡骸を発見したのはそれから1週間が経った頃だろうか。見た目も、感触も変わり果てた様を見て男は絶句した。自身の愚かさを嘆いた。そしてその亡骸を抱き上げて、同じように何者にもなれなかった者たち、あるいは誰かの変身の犠牲になった者たちが眠る墓場へもろとも捨てたのであった。

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