物語を紡ぐことの「罪」とは
20代になったばかりのとある頃、宮部みゆきの「英雄の書」という本と出会った。
英雄の書とどのようにして出会ったのか、もう昔すぎて忘れてしまった。いつの間にか手元にあって、ふと、忘れた頃に私の記憶に蘇ってくるのだ。昨今さまざまなニュースが世間を賑わせているけど、なかには悲しい出来事や目を耳を塞ぎたくなることもある。そんな時にこそ、この本を思い出す。
英雄の書では、物語を紡ぐのは人間だけ、紡ぐもの(人間)は皆等しく罪人であるとしている。物語を倣い英雄になろうとした者は、いずれ英雄と共に無名の地に還り、無名僧として咎の大輪を回し続けなければいけない。
この本で言う英雄とは、多くの人が想像するものとは正反対の存在(『英雄』もまた人が作り出した物語の一つということらしい)。光と影の、正と負の、影と負の部分を指す。英雄が世の中に蔓延れば、たちまち混沌とした世の中になってしまうそうだ。それを食い止めるために、たった小学6年生の友理子が勇敢で壮大な旅に出る。
英雄の書を読むたびに、この世の不条理を思い知らされる。ユーリの兄がそうであったように、不条理のなかではなす術がない。虐められている友人を助けた代わりに次は自分が虐められた時のように、先生も周りも見て見ぬふりをした時のように、家族には心配をかけまいと自分1人で立ち向かう決断をした時のように。
あるいは、上司から理不尽に責められた時のように、手柄を横取りされた時のように、信じていた友人に裏切られた時のように、朝送り出した家族と二度と会えなくなってしまった時のように。
その瞬間、英雄が封印から解き放たれる。どこかでまた破獄が起こり、英雄が器を求めて飛び立つ。そして、ユーリのような幼いオルキャストが悲しい運命を背負って、英雄を封印しに行くのだろう。
テレビやSNSに疲れたとき、私はいつもこの言葉を思い出す。そして物語の世界へ逃げ込み、また罪を重ねるのだ。物語に倣うわけではない。新たな物語を生み出すわけでもない。ただ、「英雄」の力に縋る。そうしてまた、目を背け続ける。