
マイ・ディア・ミスター 〜私のおじさん〜(2) ジアンについて
前回に続き、「マイ・ディア・ミスター 〜私のおじさん〜」の考察。
今回は主人公の一人、20代女性派遣社員ジアンに焦点をあて、色々語りたいと思います。
ジアン(至安)
ジアンは、耳と足が不自由な祖母を養い、両親の借金を背負い、貧しい生活を強いられています。
そして彼女をより苦しめているのが、祖母を助けるために、人を殺めた暗い過去。
社会の不寛容さもあり定職に就けない。
派遣業務だけでなく、バイトを掛け持ちしても返せない借金。
彼女は、差別され続け、人間を信じることができず、祖母など限られた人間関係しか作れません。
行く先々で孤立し、差別される貧困の日々。
社会保障制度のことも、孤立がゆえに知らない。
「安らぎに至る」至安(ジアン)。
名付けたのは両親であろうか。
安らぎに至って欲しいという願いを込めて名付けられたのかもしれませんが、親が作った借金をきっかけに、真逆な人生を歩まざるを得ない状況になっているのは、本当に不幸なことだと思います。
悪事が生んだ達観
そんなジアンは、20歳そこそこなのに、妙に大人びたところがあり、とても冷めている女性です。
恐らく、悪事を働かざるを得なかったからではないかと推察します。
祖母のために無茶なことや悪事をしなければ生きていけないジアン。
過去どんなことをしてきたのかはドラマでは触れられていないけど、恐らく、誰かの弱みにつけ込み、ゆすり、たかり、脅しで金を稼ぐようなことをしてきたように推察されます。
大人の社会では、欲に自分を失い、不正を働いたり、隠し事がある人々が少なからずいます。
ジアンは、そうした大人たちの弱み、隠し事を発見し、ゆすり、たかり、脅迫で、お金に置換してきたのではないかと思います。
彼女のどこか達観したような人間観察力は、そうした悪事を重ねてきたことで備わったものと思われます。
これも悲しいことだと思います。
ドンフンが、
「自分の殻に閉じこもるのは、心に傷を抱えているからではないか。傷ついた子は早く大人になる。不憫に思える。」と感じたのは、アンバランスに大人びた彼女と接したからではないかと思います。
流浪の月と、ジアンの存在のもつ意味あい
ジアンの物語知り、小説「流浪の月」を思い出しました。
小説「流浪の月」は、父母を失い、性的虐待を受けたことをきっかけに、理不尽にも社会のルールから外されてしまった女性と、その女性を唯一救った男性の物語を描く小説。
彼女を救った男性も身体的病気をきっかけに、やはり理不尽にも社会のルールから外されてしまった若者。
この二人を、世間は攻撃し、無視さえもしてくれない。
過去から解放してくれず、ずっと
世間から迫害されつづける。
一方で稼がないと生活できない。
彼らは転々とするが、そのスペースは狭まっていくばかり。
どんどん生息域を狭められていく。
不寛容と差別は繰り返される。
日本では不寛容と差別意識が深刻
実社会でも、このような差別による悲劇は各所で起きているものと思います。
むしろ、日本国内について言えば、かなり深刻だと捉えた方が良いように思います。
政権与党の幹部が、堂々と性差別的発言を行うような国が、今の日本です。
今の日本では、そうしたマジョリティが、自らの価値基準のみで「常識」をつくり、その立場を使い社会の同質性を促進し、少数の多様性に対する排除を促進する態度をみせています。
そうした風潮が、彼らのルールから外れた人々の生息スペースを狭めることの自覚が薄い。
多様性を認めない、創造性を発揮できない、つまらない世の中をつくることを助長している社会。
それが日本の現実なように思います。
また、権力者の中には、勝てば官軍とばかりに、ズルをしてまで、犯罪行為をしてまで、自己の独善を通すことをヌケヌケと行う輩もいます。
彼らは、狡猾にも、ご丁寧に逮捕されないようにきめ細かい画策まで行い、マスコミにも圧力をかけています。
人としての羞恥心、道徳心はどこに行ったのかと思います。
ジアンの物語が発するメッセージ
そんな現代社会ですが、ドラマでは、ジアンと祖母の厳しい状況に対し、寛容さを持ち、差別意識なく接し、サポートする人物たちも描かれていて、救われる思いを持ちます。
特に精神面で大きかったのがドンフンだと思いますが、実生活を変化させた意味では、会長の存在は大きいと思います。
このような寛容さと、人間としての気高さを持ち合わせたリーダーが、組織を率いる社会になってもらえれば、ジアンのような人達は減っていくように思います。
よって、ジアンの存在は、我々に突きつけているのかなと思います。
「もっと多様性への寛容さをもち、差別をなくす社会を、あなた自身が目指すべき。もっと考えて。」と。
さて、次はドンフンとジアンの関係性について語りたいと思います。