ヴィーガンのアライになること【実践編】

本記事は前編の【理論編】の続編である。前編ではヴィーガンのアライとはどういう存在なのかを考えた。本記事【実践編】では、具体的な実践について述べる。(本記事は約7800字ある)

なお、【理論編】で確認したように、ヴィーガンのアライであることは、非ヒト動物のアライであることを必要とする。そのため本来は、非ヒト動物のアライとしての実践についても述べる必要がある。しかし本記事は、あくまでもヴィーガンのアライとしての実践について述べる。
また、本記事と前の記事では、動物擁護的理由からのヴィーガンを前提にし、「ヴィーガン」は、少なくとも動物性食品を一切取ってないことに加えて、生活の他の側面でも可能な範囲で動物の犠牲への加担を避けている人のことを意味するとする。


実践の分類

ヴィーガンのアライとしての実践は、おそらく大きく三つある。

  • ヴィーガニズムを理解する

  • ヴィーガニズムを支える

  • ヴィーガン差別に抵抗する

これらはすべてヴィーガンがいる状況でもいない状況でも可能な実践である。以下では順に検討していく。

ヴィーガニズムを理解する

当然のことだが、アライであるからには、ヴィーガニズムを理解する必要がある。ヴィーガニズムの典型的実践は動物性食品を避けることだが、それ以外にも様々な実践がある。そこで、ヴィーガンの実践について二つのことを確認する。

ヴィーガンが避けてるのは食事だけじゃない:非ヒト動物の犠牲を伴う様々な選択

よく勘違いされがちだが、ヴィーガンが避けているのは動物性食品(肉、魚、乳製品、卵、はちみつ等)だけではない。ヴィーガンは動物搾取に抵抗し、それに関連して様々な製品やサービスを避けようとする。何を厳格に避けるのかはヴィーガンによって異なるが、例えば:

  • 革製品(財布、カバン、衣服、靴、家具など)

  • 動物実験を経た製品(化粧品など)

  • 原材料に含まれてないが、非ヒト動物やその死体の直接的利用を伴うもの(一部のビール等の飲料、一部の砂糖など)

  • 非ヒト動物を使役したサービス(動物園、水族館、ふれあい系のサービスなど)

  • 環境への影響等から非ヒト動物に重大な影響のリスクがあるもの(パーム油など)

これらは動物性食品に分類されるものではないが、ヴィーガンが主に避ける傾向にあるものである。このリストは網羅的ではないし、また逆に、すべてのヴィーガンが積極的に避けるものでもない。例えば私は一部の砂糖についてあまり積極的に避けてない(自身で砂糖そのものを購入する際はてんさい糖を選ぶようにしてるが、加工品に含まれてる砂糖については気にしてない)。そのため、実際にはそのヴィーガンと話をして、その人が何を避けようとしてるのかを聞くのがベストだろう。

ヴィーガンは特定の選択を避けているだけじゃない:種差別に反対する

上述のようにヴィーガンは非ヒト動物が犠牲になる選択を避けている。ヴィーガンの定義もほとんどそれに尽きる。だがそれは定義の話であって、ヴィーガンの実態を反映したものとしては不十分だ。少なくとも本記事と前の記事では「動物擁護的理由からのヴィーガンを前提」としており、このようなヴィーガンは次のような態度をもち、表明することがある。

  • 非ヒト動物を犠牲にするような産業・慣習に反対する

    • 畜産、動物実験はもちろん、動物園・水族館や、伝統行事における非ヒト動物のひどい扱いなどに反対する

  • 種差別を支持するイデオロギーに反対する

    • 「人間であることによる(のみの)価値」という考えや、いざとなったとき(に限らず)人間の方を優先して良い・非ヒト動物を犠牲にして良いという考えなどに反対する

    • 「〜は人間のように賢い」などの、人間を至上とした人間中心主義に反対する。

  • 非ヒト動物をモノ化・商品化するような実践や表象に反対する

    • 非ヒト動物を犠牲にした様々な製品それ自体、その広告、SNS上での表象の共有などに反対する

    • 言葉の使い方について、ことわざ(例:「一石二鳥」)や、「肉料理」などの名前、非ヒト動物を用いたたとえ(例:「権力の犬」)などの使用に反対する

言葉の使い方については次の記事に詳しい。

ヴィーガンの仲間(アライ)であることは、こうした実践や思想に対する理解と賛同を必要とするだろう。

ヴィーガニズムを支える

以上のようなヴィーガニズムとその実践を支えるためには何ができるだろうか。上での検討に基づけば、ヴィーガニズムの実践は以下のように整理できる。

  • 行動:避ける・減らす

    • 動物性食品を避ける、社会から減らす

    • 非ヒト動物を犠牲にした商品を避ける、社会から減らす

    • 非ヒト動物に有害な社会的慣習、実践を減らす

  • 態度表明:反対する

    • 非ヒト動物を犠牲にして良いという社会的慣習、実践、イデオロギーに反対する

    • 種差別を支持するイデオロギーに反対する

    • 種差別を促進する実践(イデオロギーに基づく実践、表象の生産)に反対する

あなたがヴィーガンのアライであるなら、こうしたヴィーガニズムをあなたとも一緒に広め、実践していきたい。あなたがヴィーガンではなくても(つまり生活から動物性食品をなくすことができなくとも)、このような実践はある程度は可能だろう(特に態度表明)。あなたのその実践は、ヴィーガニズムを支えるはずだ。

上記の実践は非ヒト動物のアライとしての実践と共通してるが、ヴィーガンのアライならではのこともある。例えば、ヴィーガンやヴィーガニズムに対する誤解を解くことは、非ヒト動物のアライとしてよりもヴィーガンのアライとしての実践の一例だと思われる。ヴィーガンがいない場所で、ヴィーガンについて誤解に基づいた発言や主張があったときに、あなたが訂正してくれるならば、それはきっとヴィーガニズムを支えることになるだろう。

「過激な」ヴィーガンとの向き合い方、一つの方針として

あなたがそうした実践していることに、多くのヴィーガンは嬉しいと思ってくれるはずである。しかし、おそらく、あなたがヴィーガンではないということによって、その実践に偽善性、欺瞞さ、不十分さを見るヴィーガンがいるかもしれない。
正直に言えば、少なくともヴィーガンになって2年ほどは、私はこうした考えを持っていた。私は「減らすのでは不十分なんだ!どうして非ヒト動物のことをもっと考えてくれないの!もっと考えて実践すべきだ」と思っていた。今では言わなくなったが、この思いは私からなくなったわけではない。
あなたがヴィーガンの友人からそんなことを言われたときは、文脈次第だが、一旦離れるのがいいかもしれない。もちろんヴィーガンになってくれるならそれに越したことはない。だが、例えば、当時の私の友人が私に無理に付き合って、友人自身も苦しい思いをするのは、当時の私にとって不本意だったはずだ。上のような考えと同時に、友人を気づかいたいとも私は思っているからだ。たいていの場合、考えは自分の中で整合的ではなく、突発的な感情に動かされて上のような発言をしてしまう。
そんなときは一旦離れてくれた方がお互いにとって良いことかもしれない。時間をおいて、もう一度出会えたときにゆっくりと話ができることを、少なくとも私は望んでいる。

この点についてもう一つ、そうした要求をするヴィーガンに出会っても、ヴィーガンのアライであることをやめないでほしい。【理論編】で述べたように、ヴィーガンになるという選択は、自らマイノリティ属性を選択し、差別される対象になることを選ぶことであり、自身の生活を犠牲にして、非ヒト動物のアライになることである。この選択はほとんどの人にとって過酷なものであり、強い意志が必要になる。そのような強い意志をもって非ヒト動物のアライであることを選択したからこそ、他人もヴィーガンになるべきだという、人によっては過酷な要求をすることになるのかもしれない。
この要求自体が不当だとは私は思わない。膨大な数の非ヒト動物が置かれている悲惨な状況を考えれば、ヴィーガンの定義を満たす生活でさえ道徳的に不十分だと思う。それでも、この要求は過剰要求かもしれないし、その要求に付き合ってくれること自体は嬉しいが、あなたが苦しみすぎることは嬉しくない。だから、無理にする必要はない。それでも、ヴィーガンのアライであることを続けてほしい。それはヴィーガニズムを支えることにもなるはずだ。

ここまでの内容から理解していただいたと私は思っているが、念のために書いておく。この節のタイトルの「過激な」をカギ括弧で表現してるのは、私はそうした要求をするヴィーガンを「過激」だと思ってないからである。そのようにして非ヴィーガンに都合の良いヴィーガンを「良いヴィーガン」などと表現し、非ヴィーガンに都合の悪いヴィーガンを「過激」などと表現するのは、ヴィーガニズムを支えるどころか、ヴィーガニズムを損なうことになる。
社会的運動は得てして「過激だ」と言われ、「そのような仕方では広まらないよ」などと「ありがたい助言」(実際には全然ありがたくない助言)をされる(どのような仕方が有効なのかについて誤った考えを持っていると本当に思っているなら、活動家を舐めすぎである)。もしあなたがそのような発言に出会ったなら、私と一緒に抵抗してくれると嬉しい。
とはいえ、私はすでに限界に来ているし、結局、そうして「過激だ」とみなされてしまうと人間関係がうまくいかないことを私は知っている。私が抵抗できるのは、そのように抵抗しても私から離れていかない信頼できる人との対話の中だけである。だから、あなたも無理をしないでほしい。でも、一緒に抵抗できるなら、私は嬉しいし、心強い。

ヴィーガン差別に抵抗する

前回【理論編】で、ヴィーガンが差別される対象であることについて書いた。具体的には次のような仕方で差別されている。(理論的な議論も含めた詳細についてはHorta (2018)を参照のこと)

  • 偏見や蔑視に基づく差別

    • ヴィーガンは様々な事実について思い違いをしており、信頼できない(動物愛護で感情的、証拠について無知など)とみなされる

    • ヴィーガンは道徳的に傲慢である、などとみなされる

      • 例:「動物を食べないことで道徳的に優れてると思い上がっている」など

    • ヴィーガンは揶揄されて良い対象である、などとみなされる

      • 例:「モドキ料理を食べるくらいなら肉を食べればいいのに」などの発言(この発言については後述する)、ヴィーガンの前で見せびらかすように動物性食品を食べる、など

  • 構造的差別

    • 食選択における困難

      • 例:ほとんどのレストランで食べるものはない。仮にヴィーガンオプションがあっても、選択肢の幅が著しく狭い。また自由に食事を選択できない状況(弁当の配布や、病院食など)でも困難を抱える。

    • 職業選択における困難

      • 例:動物実験など非ヒト動物に直接危害を加えるような職業、レストランなど非ヒト動物の死体を扱わなければならない職業など

    • 教育を受ける上での困難

      • 例:獣医カリキュラムや、義務教育での解剖実験に(必須要件であるために)強制参加させられることや、一部の不要な非ヒト動物犠牲的内容を伴う授業を選択することが困難であるために授業内容へのアクセスが困難になることなど

このリストはもちろん網羅的ではない。また、構造的差別を個人レベルでどうにかするには限界がある。ヴィーガンとアライの両方の数が増えていき、共に抵抗していくことで変革につながるかもしれないが、すぐにできることではない。
そのため、アライ個人として主に協力してほしいのは、偏見や蔑視に基づく差別に対する抵抗である。これについて考えるために、事例として、モドキ料理を食べるヴィーガンに対する揶揄を考えたい。

事例:モドキ料理を食べるヴィーガンに対する揶揄

モドキ料理は、いわゆる、動物性食品を用いた料理を、動物性食品を用いずに再現した料理のことである。例えば、肉の代わりの大豆ミートはもちろん、精進料理の数々の再現料理もモドキ料理に入る。私はこうした料理のことを「モドキ」と言いたくないが、良い表現がわからないのでこの表現を用いる。

先に確認しておくが、「わざわざ」動物性を含む料理を避けてモドキ料理を食べるのは、工場畜産に貢献したくないからである。「本当は肉を食べたいんでしょ、食べればいいじゃん」というのは、その人がヴィーガンを続けている理由を全く考慮していない。
加えて、モドキ料理を食べているからといって、本当にその元の料理を食べたいと思っているとは限らない。大豆ミート等を食べている人ならわかってくれると思うが、モドキ料理が元の料理を完全に再現しているわけではなく、味や食感が大きく違うことがあり、モドキ料理はそれ単体として別の料理として楽しむことができる。それゆえ、例えば、大豆ミートを食べているからといって、肉を食べる代わりとして食べているとは限らず、端的に大豆ミートの方を好む人もいる。
とはいえ以下では、モドキ料理の性質、つまり動物性料理を代替してるという性質に注目して議論を進める。

モドキ料理は二つの点で、ヴィーガンにとってもヴィーガン移行期の人にとっても重要である。
第一に、ヴィーガン移行期やヴィーガンになったばかりで慣れないころには、こうしたモドキ料理は食生活を豊かにしてくれる。特に肉への欲求がどうしても抵抗しがたいときに、似たような料理を食べることで、食の楽しみをなくさずにすむ。「ヴィーガン料理」のステレオタイプ的印象は、生野菜てんこ盛りサラダみたいなものや、おしゃれな感じの料理で、いわゆるジャンキーな料理ではないだろう。実際のヴィーガン料理はそんなことはないのだが、ステレオタイプ的印象の影響は大きく、他のヴィーガン料理へのアクセスを妨げてしまうだろう。加えて、ヴィーガン歴が短い場合にはヴィーガン料理の知識も乏しいため、代替以外の方法でヴィーガン料理のレパートリーを増やすのは難しい。
そこで、自分の普段の料理と見た目や味をそこまで変えずに済むならば、自身が持っている料理知識を有効活用しつつ、食生活の豊かさを維持できる。モドキ料理や代替食品はこうした点で有用である。

第二に、自身の他の価値観との整合性を保つ上で重要である。例えば、一部のヴィーガンは伝統的価値観を大切にしているが、伝統行事の中には特定の品目・料理を含む場合がある。クリスマスにおけるターキーや、おせち料理に含まれる非ヒト動物を使用する料理などである。そのままの仕方では、ヴィーガンはこうした伝統行事を楽しむことができない。
また人付き合いの上でも、家族や友人はたいてい非ヴィーガンなので、家族や友人との楽しい時間を過ごす上で、うまく付き合う必要がある。特に家族とは伝統行事の中でうまく付き合う必要が生じる。そこで、伝統行事に含まれる料理を代替するモドキ料理があれば、自身の伝統的価値観を大切にしつつ、家族との衝突も避けて共に楽しむことができる。

以上の二点を踏まえて、「モドキ料理を食べるくらいなら肉を食べれば良いのに」という揶揄を考えよう。この発言をする多くの人はきっとダークジョークとして言っているのだろうが(ごく一部の人は本当に悪意を持って言っていると思うが)、いずれにせよ、これは揶揄である。ダークジョークとして言っているならば、この発言主は、この揶揄が真剣に受け取られることを意図してないだろう。しかしそれは上の二つの点を考慮しておらず悪質だ(だから「ダーク」ジョークである)。特に二点目は見過ごされていると思う。ヴィーガンが、自身の価値観となんとか折り合いをつけ、周り(特に家族や友人)との生活を衝突なく共に楽しく過ごそうとしているかが、この揶揄がなされるところでは全く想定されていないと思われる。この揶揄は、そうした意味で、ヴィーガンの努力を踏みにじるものである。

もしあなたがヴィーガンのアライであるなら、こうした揶揄に抵抗してほしい。この揶揄は、上記二つの点で、自分自身と折り合いをつけているヴィーガンの努力を無下にする発言だからだ。
この種の発言がなされるとき、私は苦笑いするしかない。この種の発言に抵抗することに疲れてしまったし、抵抗したところで「冗談だよ」と返されて終わるだろう。場をしらけさせるだけで、「ヴィーガンはめんどくさいやつだ」というステレオタイプを強化することになり、ヴィーガンの立場をさらに低下させてしまう。
だが、もしあなたがアライなら、私は一緒に抵抗できるかもしれない。一人じゃないことは重要だ。アライの存在は、ヴィーガン自身が抵抗することをも勇気づけるはずだ。

またこの種の発言はヴィーガンがいないところでもなされる。もしあなたがアライであるなら、ヴィーガンがいないところでのこうした発言にも抵抗してほしい。そうして、ヴィーガンがいるところ・いないところの両方で差別に抵抗していくことで、この差別的状況を変え、偏見をなくしていけることを願っている。

まとめ

本記事では、ヴィーガンのアライとして実践することについて考えてきた。以下の三つが代表的な実践として考えられる。

  • ヴィーガニズムを理解する

  • ヴィーガニズムを支える

  • ヴィーガン差別に抵抗する

ヴィーガンのアライであるために、まずヴィーガニズムがどのようなものであるのかを確認し、ヴィーガニズムを理解する必要性を示した。
次に、ヴィーガニズム実践への理解と賛同を示し、行動することが、アライとしての実践であることを述べた。また関連して、「過激」とされるヴィーガンとの向き合い方について、一旦離れてみる、という一つの方針を示した。だがそれでも、ヴィーガンのアライであることをやめないでほしいということを述べた。
最後に、ヴィーガンに対する差別にどのように抵抗するかを考えた。ヴィーガンに対する差別には、偏見や蔑視に基づく差別と構造的差別があることを確認し、アライ個人としての実践は、主には偏見や蔑視に基づく差別への抵抗であることを述べた。実践の具体例として、モドキ料理を食べるヴィーガンに対する揶揄について検討した。モドキ料理は、食生活を豊かにすること、ヴィーガン自身の他の価値観との整合性を保つ上で重要である。それにもかかわらず、モドキ料理を食べるヴィーガンに「肉を食べれば良いのに」などと言うのは、その努力を踏みにじるものであり、道徳的に非難されるべきものである。

以上のように、ヴィーガンのアライとしての実践は、ヴィーガニズムにとっても重要である。あなたがヴィーガンのアライになってくれたなら、私はとても嬉しい。そのとき、ヴィーガンのアライであることは、非ヒト動物のアライであることも忘れないでほしい。ヴィーガン差別だけでなく、種差別に対しても、あなたと一緒に抵抗していけることを私は願っている。

参考文献

Horta, O. (2018). Discrimination against vegans. Res Publica, 24(3), 359-373. https://www.academia.edu/38079152/Discrimination_against_Vegans

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