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小学生。福祉に目覚めたきっかけ
あくまで私1個人の過去にあった経験のお話です。子どもの頃に思っていたことです。
異国の暮らしを知った経験
小学1年生の時、バリ島へ家族旅行に行ったときのこと。
車に駆け寄り、花や新聞を売る子どもやお腹の大きな妊婦さんが浜辺で髪を結う仕事をしているのを目にしました。
ガイドさんにその日の暮らしをしていくために子どももお金を稼いでると教えられました。
子どもは働かずに遊ぶが当たり前と思っていたのに、自分の生活が当たり前ではないんだということを考えるようになりました。
障害と生きるということを知った小学校生活
帰国後通っていた日本の小学校でのある日、今につながる福祉に興味を持つきっかけとなる大きな出会いをしました。
下級生に、障害をかかえていて歩行器を使って歩いている子が入学してきたのです。
この子が入る前から、学校の中は各出入り口にスロープが作られる、蛇口が小さな力で開けられるようなものに変えられるなど、受け入れ準備がされました。
いざその子が入学すると、周りは様々な目で見るようになりました。
必ず先生がそばについて見守り、教室の移動や掃除の時間など、階段を使う際には歩行器を運び本人の見守りをするなどの体制。
でも甘やかしすぎず、できることはやらせる。
他のこと差をつけすぎないそんな対応もされていました。
一度、先生から「歩行器を階段の上にあげてもらえる?」と手伝いを頼まれて手伝うと、その子に満面の笑みで「ありがとう!足が悪いから助かる」
と言われました。
そうか、手が必要な人もいるし手伝えばみんな笑顔でいられるのか!とハッとし、それ以降率先して手伝うようになり、仲良くなったのです。
そばで見守る人が増えた分、掃除の班も同じに組まれることが増えて、よく一緒にいるようになったころ、「この間消しゴム忘れて貸してってお願いしたら、床に消しゴム落とされて大変な思いしたの。なんであんなことするんだろう」
「この前わたしの歩行器に雑巾干されたの」
と話をされ差別的他の子どもの対応にモヤモヤしたことがありました。
そして、少し経った頃にわたしが足を怪我して松葉杖を使って階段を上がっているのを見たその子が声をかけてきたのです。
「大丈夫?」と。そしてその次の日の朝
「お手紙書いたから後で読んで」と手紙を渡されました。家に帰って読んでみると
「足だいじょうぶ?わたしにできることがあったら手伝うからね!大好きだよ!」という内容。
その子が嫌な対応をされていてモヤモヤしたのに、何も言ってあげられなかった自分がすごく恥ずかしくなりました。
なんでこんなに心の優しい子が、見た目でわかる人との違いだけで、そんな酷い対応をされるのかと怒りを覚えました。
その数ヶ月後、人権作文を書く機会があり、そのことを作文にしました。
するとその作文はコンクールで入選し、そのことがきっかけで全校生徒の前で読んでほしいと先生たちに頼まれ、ご家族に目を通していただいて許可をもらった上で、発表することに。
その発表に合わせて、
障害は悪なのか?変なのか?
それがあることは人ではないということになるのか?
人の子として生まれたものは全て人の子。
障害や病気の有無や程度で差別されていいことらないのに、私たちは自分と違うことを攻撃している。
明日あなたの足がなくなったとして、その時に同じ対応をされて嬉しいのか考えてほしい
そういう内容の話もしました。
その時にわたしはおかしな子どものような扱いを少しされたけど、その全てにバカと言われればバカと返し、キモいと言われれば目を見てキモいと返し、逆ギレする子には「言われたら腹立つ。わかった?同じだよ」と返していました。それが一番気持ちがわかってもらいやすいかと思ったから。
その子に対する差別は減り、その子からお礼の言葉を言われた時に
あぁ、自分が言葉にすることや行動することが、時に人を救うなら、おかしいと思うことに声を上げることも時に必要かもしれない。
助けたい人がいるなら、勇気を出すのも必要かもしれないと思いました。
経験が先の自分を作ると思った
きっと、海外で見た光景やその子に出会った経験がわたしの中になければ、いろんな人がいていろんな生活があることを考えるのはもっと遅かったと思います。それどころか、深く考えなかったかもしれないとすら感じます。
その経験があって、いろんな視点で考えるようになりましたし、どんな人を見ても差別や偏見を持つことは無くなりました。
病気や障害のある人の複雑な気持ちをケアしたり、分け隔てなく関われる人でいたいと思えるようになりました。
特別視で必要以上に配慮すぎることも本人が求めていないこともあるし、配慮しなさすぎるのも違う。同じ人として寄り添い補い合えるのが理想だと思わせられる経験で貴重な出会いだったと思います。
では、今日はこれにて〜