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境界線と、あわい。

"それ"は、僕の物語でもある。



コーチたちのアドベントカレンダー 2023冬

さながら、月の満ち欠けのような


この記事は、「コーチたちのアドベントカレンダー 2023冬」に寄せるものである。初日、12/1の記事。


僕が受け取ったキーワードは、「境界線」と「あわい」


本企画のコンセプト

12月の企画ということで、「プレゼント交換」をモチーフに、「相対する二つの言葉を参加者同士で贈り合う」ことにした。

書き手が選んだ言葉、それに相対する言葉、受け取り手が見出す世界。


自分自身の人生を、より善く生きることに向き合う僕たちが、選び、贈り、偶然に受け取り、意味を育み合う。


編み物のように交錯しあう25の物語と、関わりの線が紡ぎ出す世界。



日に日に寒さを増す今冬を過ごす方々にとって、ひととき寒さを和らげる居場所となれば幸いだ。


共同企画者の想い

「正反対」と、「核」のお話。こちらもぜひ読んでみて欲しい。


今回の書き手とスケジュール

手を挙げてくれてありがとう

12月は毎日このカレンダーを眺めるのが楽しみである。

並んだお名前を見るだけで、嬉しくなるね。


境界線

土地のさかいめの線。また、物事のさかいめ。

weblio辞書


あわい

1 物と物とのあいだ。
2 事と事との時間的なあいだ。
3 人と人とのあいだがら。相互の関係。
4 色の配合、取り合わせ。
5 折。機会。

weblio辞書




言葉を受け取って、探り始める


どこからが海?どこまでが陸?


今年は、「あわい」という言葉にたびたび出会ってきた感覚がある。


やわらかな質感、音の響き。


意味はよく知らないけれど、なんだか惹かれるものがある。





記事を書くためのとっかかりが欲しくて、検索窓に打ち込んだ。

 「あわい」に似ている言葉に「あいだ(間)」がありますが、このふたつは少し違います。「あいだ」の語源は「空き処(ど)」で、AとBに挟まれた空間を言います。それに対して、「あわい」は「合う」を語源とし、AとBの重なるところ、交わった空間を言います。

日本にあふれている「あわい」とは



えっと・・・こんな感じ?




Weblio辞書


まだ判然としない。


もう少し調べてみると、「あわい=身体」というお話に出会った。

自分の「うち」と「そと」に意識を向けてみて、とても面白いなと感じた。

身体感覚という時、どうしても僕らは内部で起こっているように感じてしまいますが、実は環境や他者という外部とのあいだ・境界こそが身体であるとも言える。つまり、身体的な「媒介」「あわひ」を通して、人は外の世界とつながっている。

内蔵感覚をひらき、溶け合う環境に身を委ねる”あわい”の感覚とは?(あわいの力/安田登)


この記事、めちゃくちゃ面白い。ぜひ読んでほしい。

内臓感覚とコンパッション、自然の中に身を置くことと「考える」ことの関係性、ひとり頭だけで悩んでいる状態からフッと抜けていくヒントに、溢れている。




境界線と、あわい。

これを探る試みは、哲学的な問のようにも感じる。



「どこからが飛行機?」「どこまでが具象?」

アートを通じた探求も、そこここに見つかった。


「あわい」の言葉の懐の深さを感じた。

検索結果のひとつひとつを覗き込みながら、思い浮かんでくることが、幾つもあった。





映画を観ながら感じた、落ち着かなさ


『プラン75』という作品を観た。

「75歳から自らの生死を選択できる制度」が採択された日本を描いた物語。


ジムでウォーキングマシンに乗りながら観ていたら、見始めた矢先から、とてもしんどくなった。身体的に、だ。


平生は心拍数も130程度なのだけれど、この時は150。



「老い」と、「孤独」と、「生きていく世界の無機質な冷たさ」と、「できなさに追い詰められていくベルトコンベアーのような足元」とを、感じた。




昨年、適応障害となり、休職から一年が経った。

僕にとってのこの一年間は、「できなさ」に向き合う時間だった。




それまでは何も気にしていなかった、日々にある物理的・非物理的な構造が摩擦となって、はがゆさに出会う。何度も、何度も。




映画の中で、「求職の検索結果が0件」となるシーンがある。75歳からの再就職が、閉ざされている状況。


住まいの賃貸のため不動産屋をはしごするシーンがある。大家からは「2年分の家賃を先払いせよ」と条件を突きつけられる。



職はない。住まいもない。





僕は、社会と、家族と、つながりとに、生かされてきた。



傷病手当金という保険システムが家計の半分を支え、育休明けに復職した妻が家計のもう半分を支え、子育ては両親と妹の献身に助けられ、僕の傷ついた寄るべない心はコミュニティにより癒された。





「持続可能な状態で、はたらきたい」

「家族と一緒にいられる暮らしを、おくりたい」





この3年半の、一貫した願いだ。

叶った部分、道半ばな部分、手放さざるを得ない部分、それでも求める心。



「生きていたい」から、求めている。

「家族と共に暮らす暮らしを、豊かに維持していきたい」から、求めている。





かつて負った傷が、不安と不信とを、突きつけてくる。





「僕はふたたび、はたらけるだろうか?」


「僕がはたらける場所は、あるのだろうか?」






映画と、現実。

高齢の女性と、その半分の齢の男性。

独り身と、拡大家族。

賃貸と、実家。





映画の主人公と、僕とを隔てる境界線は、いくらでもある。


別々の人生で、他人で、架空で、立ち位置も違う。




それでも僕は、彼女との重なりを、どうしようもなく身近に感じたのだ。


あわいを、感じたのだ。





他人事のテーマなど、ただの一度もなかった

その問が照らすのは、


ライフコーチとなり、人生相談に乗り始めてから、3年が経つ。


数百時間のセッションを重ねて、100人を超える方々と出会って、その折々の人生のテーマを、共に大切に扱ってきた。




年齢も、性別も、世帯も、仕事も、状況も、価値観も、信念も、バラバラ。

だけれど、持ち込まれたテーマが「遠くの世界の他人事」だったことは、ただの一度もなかった。




話すたびに、同時に僕は、自分自身の人生への問に、直面し続けている。






死を想う時

燈が揺らぐ、生は揺蕩う。


終わりは、嫌だ。

永遠も、嫌だ。





10歳の頃からの、僕の苦しみ。

考え始めると発狂しそうになるから、枕に顔を勢いよく埋めて、頭の中からこれについての考えを追い出すことに必死だった。



こんな苦しい想いになるようなことを、他者に味わせたくない。

だから、僕はこの話題を、口にすることができなかった。

確かに「在る」苦しみを、必死に「無い」ものとしたかった。




齢も30を過ぎて4年、今はほんの少しばかり、落ち着いたように想う。

死を想う時、他者が、どうしようもなく愛おしく感じることがある。



「大嫌いなアイツも、このどうしようもない苦しみを宿業として持っているんだよな。それは、しんどいよな。」



嫌いな相手とも、見知らぬ相手とも、「苦しみ」を媒介として、他者に一体感を覚える。

それぞれの苦しみの形は違うし、まったく同じように感じているかはわからない。


僕たちは「身体」という境界線でどうしようもなく分たれていて、「身体の内側」に閉じ込められている存在として、永遠に孤独だ。



それでも、境遇を想うと、気が狂いそうになる不快の中に、温度を感じるのだ。



死を想う時、僕にとって「自己と他者」の境界は溶ける。


あわいで、重なる。





健康と、不健康。健常と、障害。



病気は、「個人」というものだけを切り出して在るものでは、ない。

社会状況、世相との関わりで、「病気」と、なる。


文化としての、状態の捉え方。




僕にとってのこの一年は、「健康」と向き合う一年でもあった。

心の傷つきに留まらず、何ヶ月もやまない咳に、今も苦しめられている。

何度も高熱を出したし、低気圧にも薙ぎ倒された。



「はたらくを、取り戻せるのか?」



という問に重くのしかかるのは、そんな「不健康」と共に在る日々でもある。




だけれど僕は今、幸福を感じて生きている。

不健康にあっても。


今の暮らしに、愛おしさを感じている。

不適応という障害にあっても。





僕にとっての20代は、傷つきを、「気に留めず歩み続ける」バーサーカーのような生き方であった。


年に7回倒れて病院で点滴に繋がれようと、ネクタイの結び方を忘れてしまおうと、「それでもまだ歩けた」から、凌ぎ、乗り切り、生き抜いてきた。



30代半ばとなった今、同じようには生きられないことを、痛感する。

「それではもう歩けない」から、違うやり方を見出さねば行き詰まるのだ。





「老い」を、学んでいる。

「老い」の中での生き方の選択を、学んでいる。


そんな感覚が浮かんできて、しばらく経った。




2歳半の息子の、はち切れんばかりの生命力が、眩しい。

無限の体力と、好奇心とが、眩しい。



でも、彼との境界線は、不思議と感じないのだった。


ここにもまた、あわいがある。





身体感覚と、生きる力への信頼

変化へ向けて、飽和していく


頭で生きるフェーズから、身体で生きるフェーズへ。

そんな変化を遂げてきたように思う。


変化にも「あわい」があります。ものごとの変化には、ゆるゆると変わっていく「漸進型」と、あるときに突然変化する「跳躍型」とがあり、もうひとつその中間型があります。外から見ると変化していないように見えるけれども、内側でゆるゆると変化が行われている。そして、それが飽和点に達したときに外見も突然変化する。それが中間型で、「前適応型」の変化と言います。これが「あわい」の変化です。

前掲 日本にあふれている「あわい」とは


きっと、僕の身体は、何度も何度も、訴えかけてきたのだろう。

熱を出し、動作を忘れさせ、「声を聴け!」と。



頭の力、意思の力・・・と書くと聞こえはいいけれど、「悪評につながる不安」「居場所を失う不安」「逃げられない感覚」に縛られて、身体感覚を鈍麻させ、鞭打って動くしか、できなかった。


それがそのときの精一杯だった。




その果てに、「動けない」が訪れた。

物理的に、立ち上がれなくなった。



まさに、「飽和点に達した」のだろう。



以前の僕とは、随分と「かまえかた」が変わったように思う。


一年ぶりに受けためいさんとのセッションでは「別人のよう」な速度での在り方があった。




あわいの変化を遂げて、今日を生きている。





とまりぎと、あわい

『桜風』 2023.11.30


僕が標榜して在る「とまりぎ」も、あわい的だなぁと感じた。

「国ではない、境界線を引かない、居場所」。




出入りは、自由。

樹上におらずとも、人がそうだと思った範囲まで、居場所となる。




現実に物理的には無いけれど、居場所として作用としては在る。

「空」みたいなものだ。





「空」という物理的なものは無いけれど、僕らは「空」を見ている。

無いけれど、在る。

どこからが空で、どこまでが空なのか。それもまた、あわいだ。





書き上げてみて


種は育ち、苗となる


いつも通り、書き上げてみるまで、僕が何を書くのか、まったくわからなかった。

書くことは、考えること。



いつもと違うのは、随分前から「キーワード」が贈られていて、そのキーワードと共に過ごす日々に、言葉が器となって育ってきたものを感じたことだった。


形はわからなかったけれど、質感は感じていた。

そう。常にアンテナが立っていた。




書き上げてみて、ほっとしたような、スッとしたような感覚と、「もっともっと」探求してみたいと、胸を衝くような感覚とがある。




世界をもっと知りたいような、人をもっと知りたいような。

「あわい」の感覚をもっと育てていきたいような。





贈られた言葉の種が、僕の命の中で、苗へと育った息吹を、感じている。







ここまでお読み頂き、ありがとうございました!




どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。


コーチングを学んだことで、僕の変容は加速しました。
労働観が変わり、人生観が変わり、生きる質感が変わった。その感動を届けたくて、コーチの仕事をしています。


そんな僕の挑戦の原点にある想いを綴ったnoteはこちら。


コーチングに触れて、ガラリと人生が動いた話はこちら。

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ご自身の価値観を整理したり、居場所を探していくための構想を、「喋りながら考えてみたい」という方向けに、頭の整理にお付き合いするサービスを提供しています。


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また、直接まーと喋ってみたいぜ、という方は、気軽にLINEで話しかけてもらえたら嬉しいです(公式LINE)。今は平日10時~14時くらいの時間に話せることが多いです。

「あなたの物語に共に出会う嬉しいその瞬間」を、今から僕も心待ちにしております。


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