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他力念仏再論 歎異抄 第十四条

滅罪のための念仏、自力の念仏

第十四条で取り上げられている異義、それは念仏を称えることで罪を滅することができるのだ、というものです。これに対する唯円さんの指摘は、「いまだわれらが信ずるところにをよばず」。自分たちが信じている教えには及ばないとおっしゃっています。
この異義は、念仏を罪を滅する手段として称えることに他ならず、自力の念仏に相当します。

観無量寿経に説かれる悪人の救い

ところで、この滅罪の利益とは、次のように観無量寿経に説かれていることを根拠とするものです。

かくのごときの愚人、命終らんとする時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべしと。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

—『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』
浄土真宗本願寺派総合研究所著

観無量寿経はとてもドラマティックなお経です。ざっくりお話すると、王子による王殺しに、厭世を感じた王妃が釈尊に浄土へ往生させてほしいと願い、釈尊がその道を説くという内容です。その釈尊が説いた浄土往生の道、つまり方法が、定善、散善です。
定善とは、いわゆる観法で、精神統一して、浄土とありよう、阿弥陀仏や諸仏を観想するものです。
散善とは、善行を九品九生に分け、それぞれに応じた善行を説くものです。品、生、それぞれに上中下があります。
先に引用した経文は、このうちの下品下生が説かれた箇所です。ここでは、十悪五逆の罪人の救いが説かれています。 
十悪というのは、殺生、 ぬすみ、 邪婬、 うそいつわり、二枚舌、悪口、 おべんちゃら、 むさぼり、 いかり、おろかさ、のこと。
五逆は、父を殺す、 母を殺す、 聖者を殺す、 仏の身体を傷つけて出血させる、 破和合僧、つまり教団の和合一致を破壊し分裂させるの五つ。
この十悪五逆の悪人は、善知識、仏の教えに導いてくれる人が、いくら教えを説いても、仏を信じることができない。そこで、今際の際で、善知識がただ阿弥陀さんの名前を称えなさいとおっしゃる。その善知識の言葉に従い、念仏を称えると、息絶えるとき、浄土へ生まれ変わっていく。
「仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く」。
「劫」とは非常に長い時間の単位を表します。
罪の重さを測るために時間の単位で表しているのですが、八十億劫というと、途方もない重い罪であるとわかります。その途方もない重い罪が念仏を称えることによって消滅していく。そしていよいよその人がその命を終えるとき、金色の花がその人の前に現れて、その念仏者は浄土に生まれ変わる。
金色の花の中で十二大劫という、これまた恐ろしく永い時間をその花の中で過ごすんです。時が経過してやっと、その花が開くと観世音菩薩、勢至菩薩がその人のために教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起す。

十悪五逆の罪の重さを知る

このように観無量寿経には説かれていますが、歎異抄には、「これは十悪五逆の軽重をしらせんがために」と書かれています。十悪五逆という罪がどれほど重い罪なのかを仏が教えてくださっている。それは、念仏に滅罪の利益がないということではもちろんありません。念仏の功徳によって、罪を滅せられたとしても、非常に長い間、花の中で過ごさなければならないのです。
念仏を称えなければ無間地獄に堕ちるしかない悪人も、念仏を称えれば地獄行きは免れます。免れたとしても、阿弥陀仏の信心を欠いているため、直ぐには往生はかなわないのです。
この解釈は、「唯信鈔」にも書かれていますし、親鸞聖人もそのようにおっしゃっています。つまり、真実/方便でいえば、この十悪五逆の滅罪は、方便の教えです。なので、唯円さんは、自分たちの信じる教えに及ばないとおっしゃるんですね。

他力の念仏は信が大事

唯円さん、さらに、親鸞聖人が信じられていらっしゃるのは、次の一文に集約されています。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

歎異抄 第一条

阿弥陀さんを信じて念仏を称えようという心が湧きあがってきた時、阿弥陀さんががっしりと、決して見捨てないと収めとってくださる。その阿弥陀さんの救いを第十四条では次のように表されています。

弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。

歎異抄 第十五条

「定聚の位」は、次の世で仏になることが決まったという位です。そして、息絶える時、これまでの煩悩悪障が転じて、仏の悟りを開くのだと。その根拠となる経文は、無量寿経に説かれる第十八願です。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』
浄土真宗本願寺派総合研究所著

観無量寿経の下品下生との違いは、今生、つまり生きている間に、浄土へ直に生まれ変わり、仏になることが決まること、そして、浄土へ生まれ変わるや直ぐに悟りを開くことです。
観無量寿経に、十悪五逆の悪人は、「悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし」と説かれて、本来、六道輪廻から離れることはできず、苦海に彷徨う者でありながら、ただ念仏を称えることで、十二大劫という果てしないくらいの時間を花の中で過ごして、花が開いたときに悟りを開く。
十八願との違いは、信心をいただくか、否かという一点です。
一念発起し、信心をいただくこと。それが第十八願、阿弥陀の本願の救いの要です。ひとえに阿弥陀仏の力による往生だからこそ、他力なのです。それ故に信心をいただいた後、称える念仏は、「みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり」と、唯円さんは本願の有り難さをおっしゃっています。この報恩謝徳の念仏は、後年、蓮如上人もおっしゃっているところです。また、唯円さんは、本願を頼むのであれば、念仏を称えずに一生を終えても、直ぐに往生できるとおっしゃっています。

摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。

歎異抄 第十四条

念仏という行よりも、何より願を頼むことが大事。この条で、唯円さんは、他力について、親鸞聖人の教えについて再考を求めていらっしゃるんですね。


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