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ホンマ、ひとはわからんなあ 歎異抄 第十三条(4)

また、海河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなりと。さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべしとこそ、聖人は仰せ候ひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか。

歎異抄 第十三条

唯円さん(←親鸞聖人?)の宿業論

第十三条で異義を投げられているのは、「本願ぼこり」を非難することです。
「本願ぼこり」とは、阿弥陀仏の本願に甘えて、悪を恐れないこと。
唯円さんは、
「本願ぼこり」への非難には、本願への疑いがある、そして、善悪の宿業が見過ごされている、この二点を問題とされています。
第十三条は、宿業論を軸に異義が解きほぐされて行きます。よきこころ、わるいこころも、どんなささいな振舞いも、宿業の働きが因となっているのです。われわれは、自身の業に、どんな縁が重なるかによって、どんな振舞いもする存在なのです。

いつ死ぬかわからない世界

この存在論は、親鸞聖人や唯円さんには、現実的、日常的な実感としてあったのでしょう。台風、大雨、日照りなどによる自然からの影響で、飢饉、餓死は、目の前に死体が転がっているというレベルのものでした。
戦乱、合戦などに巻き込まれてしまってもおかしくない。些細ないざこざで血を見ることは日常茶飯事でしたでしょう。親鸞聖人や唯円さんにとって「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」の実感値は、まさに、日常生活レベルでの認識であったのです。ただ、その認識は容易に受け入れることは難しい。そのような現実に善悪という価値基準を当てはめてしまうのです。災難に巻き込まれてしまうのはおまえの悪業が招いたのだ、おまえの前世の業の報いなのだと考えてしまう。

自らの善悪の分別を知れ

このような善悪の分別によって、
「本願に甘えて、悪をも恐れずなどもってのほかだ」
「念仏者は善人として振る舞うべきだ」
「これこれの犯罪歴がある者は、この道場には入ることを禁じます」
といったことも起きるのです。
これを唯円さんは、「ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか」と指摘されています。
ここは、親鸞聖人のお手紙にある、「法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあうて候ふめり」と響きあっているところではないかと思われます。実証的に確認してみたいところでもあります。

人間、なにしでかしか、わからん

縁によって人はどんなことだってしでかすものだ。そのような認識に立てばこそ、聖道、自力の仏道は、やはり、難行であり、その道によっての往生はかなわない。だからこそ、釈尊は阿弥陀仏の本願を勧められ、もっぱら弥陀の名を忘れず、心にとどめよと説かれた。
高僧方が、その釈尊の伝灯を継がれてこられた。

願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ。

歎異抄 第十三条

本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそ候うげなれ。

歎異抄 第十三条

内にもっている虚仮に気づけと唯円さんは促していらっしゃるのです。
虚仮を虚仮として認め、その一皮を剥いて、宿業にコントロールされた煩悩のありようを確かめろとおっしゃっているのです。

そのありようを見たならこそ、弥陀の本願が善悪を一切不問とされる、広大な懐の深さを感じられる。阿弥陀仏の無限のパワーと慈悲を思い知らされる。それを知ったなら、「本願ぼこり」という言葉は何の意味もない、効力を持たない。悪でさえ、そこでは成り立たないものなのです。
このように「本願ぼこり」に対する非難にたいして、唯円さんは膝を折った。

歎異抄をひらくこと

第十三条は、読みにくい。論点がつかみにくい。話に飛躍があり、話題が唐突。つまり、論旨が混乱している。
私はそんな印象をもっていたのですが、その原因は元より私自身にありました。
何度も文章と向き合っているうちに、上記の印象はなくなりました。
ただ、ここには、なんかすごいことが書かれているとは感じますが、では、それが何なのかを具体的に説明せよと言われても、わたしにはムリです。
おそらく、時間を置くと、この第十三条から受け取らせていただくことはまったく変わっていると思います。でも、それは歎異抄という一書にわたって当てはまることです。現に、今も、第三条はじめ、他の条を読み直していたりします。一つの条を読むと、別の条の味わいが変わってくる。歎異抄を読むことは、途方もないな、終わりが見えない。

しかし、これも不思議なことで、歎異抄は、やはり、仏教書なんですね。であれば、ここには浄土真宗の教義がベースとしてあり、弥陀の本願を基本とする教義が説かれていて、その教義を知ることが根本にある筈なんです。
であれば、真宗の教えを理解する、理解できれば次へと、次に何を読もうかってことになるんですが、どうも、歎異抄は、そういう、真宗入門というものではないという気がします。歎異抄を読むことそのものが、一つの体験、そんな気がします。それがどのような体験なのかは人それぞれ。

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