無理難題をふっかけられる 歎異抄 第十六条
回心はただ一度きりと心得よ
第十六条で異義とされているのは、回心の取り違えです。一向専修、ひたむきにもっぱら弥陀の本願を頼み、念仏称える者にとっては、回心とはただ一度起きるものです。また、それは、阿弥陀仏と念仏者との関係において起きるものす。断悪修善のための回心は、むしろ、自身の計らいによるものであり、自力の行いです。それは、阿弥陀仏の本願とは、一切無関係ということでしょう。
阿弥陀仏から差し向けられる
ここでは、回向についても注意した方が良いでしょう。
自力念仏では、自分が称えた念仏の功徳によって往生を遂げようとします。自分が功徳を積み上げること、それを阿弥陀仏に回向することで往生できるという考え方です。ここで回向とは、善行の功徳を差し向けるということです。
一方、他力念仏では、念仏者は阿弥陀仏より信心を回向していただくのです。ベクトルの向きが真逆なんですね。
「弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらする」、この順序は絶対です。阿弥陀仏の方から私に向けて智慧を差し向けてくださり、それを私が受け取らせていただく。私が阿弥陀仏へ念仏称える代償として智慧を授けてくださるのではない。阿弥陀仏が、すでに、遥か昔々に、私に向けて回向してくださっている。
なぜ易行難心なのか
これは、浄土真宗が易行難信と言われる理由のひとつだと思います。法然聖人、親鸞聖人の教えは革命的とも言われる理由の一つでもあるでしょう。
なぜなら、今でも、神や仏を頼むと言えば、私の方から参る。祈り、お願いをするものだと身に沁みています。それを歎異抄では自力と呼ばれます。自らの計らいにより、自らの願成就を神仏に頼む。
また、真宗では阿弥陀一仏に頼む。
ところが、日本は元来、八百万の神々がまします。正月には、神社に初詣に出かけるのをはじめ、恋愛成就ならあそこ、車を買ったらどこのお大師さんで厄払いしてもらう、などなど。自分の願によって、頼む神仏はたくさんいらっしゃいます。その時々によって、頼む神仏を変えている。節操がないと言えば、その通りですが、神仏との関係はそのようなものだと捉えている。この実情からも、阿弥陀一仏にひたすら頼むことのハードルの高さを感じてしまうのです。
神仏を信じるのも、煩悩ゆえに
ただこのような神仏観も、「われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざること」の故なのではないか。神仏を頼むというのも、自らの計らいであり、自身の煩悩の為せるところで、それも宿業の働きによるのではないか。
そのように考えると、第十六条で唯円さんが異義とおっしゃる「断悪修善のここち」は、なかなか解けない、自身を縛りつけている縄だと感じるのです。
歎異抄を読むのは宿縁のため
もちろん、ここで異義と言い渡されているのは、唯円さんと同じ、念仏者のともがらです。親鸞聖人の教えを聞き、念仏を称える人たちであっても、「口には願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふ」のです。正直、唯円さん、厳しいなぁと感じます。
いや、唯円さんが厳しいのではないのです。むしろ、厳しいと感じるのは、私が本願他力真宗に感じているものです。私は、真宗の門徒でもなく、ただ仏教に興味を持ち、歎異抄を読み進めているだけで、おそらく唯円さんにとっては、嘆く相手にもならない者でしょう。歎異抄を読んでいるのも、自分の都合で読んでいるだけです。しかし、それも私の宿業であり、宿縁によって、今、歎異抄を読んでいる。唯円さんおっしゃる宿業に沿えば、そのように言ってもおかしくはない。つまり、自分では気づいていないか、言葉に表現できない働きによって、私は今、歎異抄を読んでいるのです。
歎異抄につまづいて
極めて私的な事情になりますが、私がこの歎異抄でつまづいていることは、信心を置いて他にありません。
上記のとおり、私が信じるということをひるがえし、阿弥陀仏からたまわる信心を素直に受け取ることができない。
さてさて、第十六条から引用したところを読めば、なぜ私が信心につまづくのか、それが照らされているように感じます。私の計らいの限界を指し示す言葉は、「往生」です。つまり、往生は私の考えがそもそも及ばないことであり、往生を望んでもいない、まして仏になりたいとも考えていないのです。であれば、信心という言葉も宙に浮いていて、捉えどころがないのも当然です。断悪修善のこころにしても、起こしようがありません。
結局、私には往生について語る言葉も、論理も持ち合わせていないのです。唯円さんは、「すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして」とおっしゃいますが、なかなか、どうして、やはり、それがいちばん難しいんじゃないですか!