見出し画像

さとりは、そもそも開けるもんなのか 歎異抄 第十五条

歎異抄 第四条には、聖道門、浄土門について、特に慈悲においての違いが語られていました。この第十五条では、「さとり」について、聖道門、浄土門の違いが説かれています。
この第十五条で取り上げられている異義は次のようなものです。

煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと

唯円さんは、これはもってのほかだと断じるのです。
第四条では聖道門でまとめられていましたが、第十五条では、真言宗、天台宗と具体的な宗派をあげていらっしゃいます。真言宗の即身成仏、三密行業、天台宗の六根清浄、四安樂行を挙げて、これらは難行であり、飛び抜けた能力をもった修行僧でも成就が難しい。徳の高い僧であっても、今の世では煩悩悪障を断ち切ることなどとてもできないので、来世での悟りを祈るのだと唯円さんは述べられています。
まして、修行もできない、経典も理解できない人間が、どうしてこの世で悟りを開くなどということがあろうか。この身をもって悟りを開くというなら、釈尊のように様々な姿で現れて、三十二相・八十随形好という仏の徴しを身体にも表し、ありがたい説法ができるはずでしょう、そんなことできないでしょう。そんな途方もないことを言うものではない。修行もできない、経典もわからない、煩悩悪障を断ち切ることなどとてもできない。そんな者のために、阿弥陀仏は本願を立てて、われわれを浄土へ迎えとろうとされていらっしゃるのだ。その道は易行であり、善人だろうが悪人だろうが関係ない道なのだ。このように唯円さんは諭されます。

いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無礙の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。

歎異抄 第十五条

浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふぞとこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか

歎異抄 第十五条

聖道門=自力=難行。
浄土門=他力=易行。
師訓篇にもある、この対比を第十五条では、悟りを中心に据えて、さらに詳しく説かれている。
第十四条は滅罪を中心に、他力念仏について、唯円さんご自身の言葉として論じられていますが、その内容は師訓篇でも説かれていました。第十五条もその点では同様です。
歎異抄を最初から順々と読んでいくと、同じ内容が何度も繰り返されている印象を持ちます。重要なのは、それを誰が語ったことなのか、です。唯円さんが語っているのか、それとも親鸞聖人が語ったことなのか。かつて、親鸞聖人が語ったことであっても、今、唯円さんが語り直している。そこに、歎異抄という書物の価値があります。歎異抄が親鸞聖人語録に終わらないのは、親鸞聖人の言葉を自ら問い、真宗の現状の課題に向けて問い直しているからです。

この語り直し、問い直しという唯円さんの物腰こそ、実は親鸞聖人から学び取られた最大の教えではなかったのか。

いいなと思ったら応援しよう!