「妙薬があるからといって毒を飲むな」、親鸞聖人の手紙に聞く〜歎異抄 第十三条(3)
第十三条から抜き出して、この箇所だけを読むとそれほど文意を捉えるのは難しくはありません。ただ、この直前で展開されている親鸞聖人と唯円さんの会話から続けて読むと、唐突な印象を受けます。
この箇所は、親鸞聖人のお手紙を下敷きにしているので、そちらを先ずは確認してみることにしましょう。
親鸞聖人は、六十歳頃に関東から京都へお戻りになりましたが、その後も関東のお弟子の方々とのつながりがあり、複数にわたって、教えを求められては手紙に書きつけ、「自力他力事」や「唯信抄」など、親鸞聖人の兄弟子、隆寛律師や聖覚上人が書かれた書物をご自身で書写し、送られています。今、引用するお手紙は、建長四年二月二十四日の日付で、親鸞聖人八十歳のときのお手紙です。
冒頭、お弟子の方々からの仕送りに礼を述べられ、また、明教房、明法房と言った方たちの近況が語られています。また、平塚の入道という方が往生されたことに触れられて、「かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。めでたさ申しつくすべくも候はず」と感慨をのべられています。
それに続けて、浄土宗の現状のありさまを述べられ、実に嘆かわしいとおっしゃっていらっしゃる。かつで、親鸞聖人ご自身、関東にいらっしゃったとき、往生に妨げになるものは何もないということだけを聞いて、誤解する人たちが多かった。きっと今も変わらないだろう。それは関東だけでなく、京都でも、教えをきちんと理解せずに、様々に言い合いながら迷っているようだ。法然聖人のお弟子の中でも、お経や高僧方の論釈を勝手に解釈を加えて、自分も迷い、他人も迷わせているとおっしゃいます。
まるで、歎異抄が書かれた経緯と重なってくるのですが、親鸞聖人がご存命の頃からすでに浄土の教えは混迷していたことがわかります。
このあと、親鸞聖人のお説教が述べられます。少し長くなりますが、原文を読んでみましょう。
かつて、みなさん、弥陀の本願も知らず、念仏申されることもなかったが、お釈迦さんや阿弥陀さんのお導きのより、今は阿弥陀さんの誓いが効きはじめた身でいらっしゃる。もとは欲望のまま、貪りや怒りや愚痴ばかりを好んでいたところ、仏の誓いを聞きはじめてから、欲望の酔いから少しづつ醒めて、貪りや怒りや愚痴からも少しづつ離れて、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっていらっしゃる。
それなのに、まだ酔いも醒めていないのに、重ねて酔いをすすめ、毒も消えていないのに、さらに毒をすすめていらっしゃるのは、嘆かわしいことですよ。
煩悩にまみれた身だからといって、自分の心のおもむくまま、身にしてはならないことも許し、口にも言ってはならないことも許し、心にも思ってはならないことも許して、自分の心のままでいればいいんだと申し合わせていらっしゃるとは、かえすがえす不憫に思われます。
このあと、親鸞聖人はいくら効き目のある薬があるからといって、毒をあおっていいものか、そんなことあってはならんと断じていらっしゃいます。
そして、本願を信じて念仏申し上げているうちに、悪から遠ざかっていくはずだとおっしゃっるのです。
阿弥陀仏の本願を聞き始めたときには、身も心も悪にまみれた自分が往生などできるわけがないと思っている人こそ、阿弥陀仏はお救いくださる。そういう人は、信心が深まるにつれて、自身の悪い心も捨てようとしていくのだ。
釈迦阿弥陀のお勧めにしたがい往生を願うなら「まことのこころ」が起こるのだから、どうして昔の心のままであろうか。
唯円さんのおっしゃるとおり、我がこころへの執着をやめさせようというがための親鸞聖人のご説法です。ここで、親鸞聖人は、信心の発達過程を説かれており、唯円さんはそれを踏まえたうえで、「まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず」と記されたのです。ただ、その悪は、「釈迦、弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身」となった後には、いとい、捨てるべきものなのです。
弥陀の誓いを聞くにつれ、悪は浄化されていくはずのものなのが、毒に毒を重ねていくのは自らの計らいが働いていることに他なりません。この第十三条で、唯円さんは、親鸞聖人によって、ご自身の計らいを見事に曝けだされた体験を語っていらっしゃいます。
この稿で、最初に唐突な印象を受けるというのは、唯円さんご自身の体験に続いて、昔邪見、邪執に陥った人がいたとの話のつながりが、私自身、見えていなかったからなのですが、親鸞聖人のお手紙を添えてみると、自らの計らいという共通点が洗い出されてきました。唯円さんが親鸞聖人に破られたのも、ご自身に対する計らいであり、邪見、邪執に陥った人も、自身の計らいで、往生のタネとして悪をつくっていたのです。
「念仏は行者のために、非行・非善なり」であれば、一切、自身の計らいが混入することはありません。ただ、弥陀の誓いを信じつづけていても、なお、悪を起こしてしまうのは、宿業の働きによるためです。異義者に対して、心中で働く宿業へ気づくよう、唯円さんは諭されている。
つづく。