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マニピュレーションの危険性を説いた本「会話を哲学する」

本(会話を哲学する)(長文失礼します)

多くの小説や漫画などの作品を引用しながら、会話を哲学的観点から考察した本です。筆者の三木那由他さんは、言葉とコミュニケーションを研究する大阪大学大学院講師の哲学者で、実は先日同じ筆者の「言葉の展望台」を読んだばかりでしたが、この本が某書店での新書売上1位との新聞書評欄での記事を読み、また買って読んでみました。

副題が「コミュニケーションとマニピュレーション」というもので、マニピュレーションとは「会話を通じて人はだれかの心理や行動を操作しようとすること」と定義しています。
さらに「コミュニケーションとは情報の伝達というより約束事の形成である」とも述べています。 

この約束事をもう少し分かりやすく言うと、話し手と聞き手の会話で成立した約束事で、その後の行動がその約束事から導かれた行動になる、つまり制約事項が発生するというものですが、要はこの約束事は、話し手の本心というか本音ではないことが多く存在すると、多くの作品を引用しながら解説しています。

第二章の「わかりきったことをそれでも言う」、第三章の「間違っているとわかっていても」、第四章の「伝わらないからこそ言えること」、第五章「すれ違うコミュニケーション」の各章で詳細が述べられています。

このように読み進んで行くと、コミュニケーション=建前、マニピュレーション=本音という図式を連想してしまいますが、本音とはあくまでも他者と関係ない内面性のレベルであり、ここが他者への関連性があるマニピュレーションとは別次元のものとなります。

筆者自身もマニピュレーションの危険性を第六章「本心を潜ませる」、第七章「操るための言葉」で述べています。
1番分かりやすい例として漫画「高橋留美子劇場」の「君がいるだけで」で、弁当屋での会話が出てきます。
客が唐揚弁当15個を注文し、店員の女性(タイの留学生)がオーダーを伝えますが、客がかかってきた先輩からの電話で唐揚ではなくカレー弁当と言われます。そうすると客は店員にカレー弁当だと言い張り、出てきた店長にも女性が日本人ではないので間違ったと主張します。

これは悪質なマニピュレーションの最たる例で、ここで重要なのは話し手と聞き手の力関係が存在するというものです。客と店長、日本人と外国人などの不平等な関係で、そうした背景ではマニピュレーションが効力をより発揮してしまう危険性を指摘しています。現在でも社会を分断するマジョリティーとマイノリティーとの関係においてマニピュレーションの危険性は、ポピュリズムやヘイトスピーチでも多用されている現実があります。

ただ筆者も強調しているのは、マニピュレーションはあくまでも公式見解ではないので「そういう意図ではなかった。誤解を与えた」などの弁解の余地を残しており、悪質なマニピュレーションは、結果の良し悪しの点でその悪質さを問われるべきだと主張しています。

結果オーライの逆で、結果的に悪質であればもはや弁解の余地がないという当たり前の主張であり、煽ってナンボの自己マン炎上商法にもちゃんと落とし前をつけさせるのが必然だという、これまた当たり前すぎる結論だと思いました。

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