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【書評】ツミデミック/一穂ミチ(光文社)【ひつじの本棚】

はじめに

    初めまして。
    群多亡羊(むらたぼうよう)と申します。
  「ひつじの本棚」と題して、書籍の書評や解説、感想などを気ままに書き散らしていこうと思っております。 どうぞよろしくお願いします。

    1冊目の今回は、2024年の第171回直木賞受賞作品である、一穂ミチ先生の『ツミデミック』(光文社)を僭越ながら評させていただきます。

戦慄のリアルと恍惚のオカルト


    コロナ禍が私たち人類に与えた影響は、言わずもがなであろう。
    俄かに脅かされた日常や悔しくも絶たれた生命の輝き。私たちはそうした艱難辛苦を乗り換え、今ひとたびの平穏に身を置いているのである。
    しかしどうだろう、私たち人類が取り戻した日常の姿は、この厄災の前後で僅かな変化・変容を遂げてはいないだろうか。その最たる例は、「リモート〇〇」だ。仕事や会議をはじめ、カードゲームの対戦や果ては墓参りすらも「リモート」化するようになった。
    これらは、ある意味で「コロナ禍がなければ」誕生し得なかったシステムともいえるかもしれない。そう捉えれば、コロナとは試練であったのではないか。与えられたものなのではないか。
    そのような視点を持たずにはいられないのだ。

    さて、一穂ミチ作・『ツミデミック』はそんなコロナ禍(※作中でははっきりと「コロナ」という言葉は現れないが、それが背景にあることは明確であるため、以下はこのように表記することとする)の狭間にある人々の「歪んだ」日常の形をありありと描き切る。
    タイトルは「罪」と「パンデミック」による造語。まさに、罪過が飛沫感染のように本を飛び出し、私たちの心にまで重くのしかかってくる。
    本作は六つの短編に分かれており、それらは互いに関係し合うことなく独立した世界線を映し出す。
    しかし、「コロナ禍」という一つの共通した混乱を題材とし、私たちの記憶を時に優しく抱擁し、時に鈍い狂気で殴りつける。「社会派サスペンス」とでも呼ぶべきであろうか、そういう痛みや恐ろしさを突きつけてくるのだ。

    そして、私はこの作品の魅力を「戦慄のリアル」と「恍惚のオカルト」の交差であると分析する。

    私たちがつい数年前まで感じていた「不安」や「恐怖」、そういったものを立ち上がらせる背景設定。コロナの禍中には人々のこんなドラマが実際にあったのだ、と言わんばかりのリアリティを強烈な筆致で描写する。
    特に、本作は登場人物のセリフ回しに「いやな現実味」があり、それが却って恐ろしさを引き立てている。敢えて「ドラマチックすぎない」セリフを中心に据えることで、そのやりとりが私たちの随分と近いところで行われているのではないかと錯覚してしまう。

    そして、対照的に各エピソードに散りばめられたオカルティックな設定が私たちに「心地よい不気味さ」をもたらす。
    例えば死んだはずの女が話しかけてきたり、例えば幽霊が語り手になっていたり・・・・・・ そんなバカな、と声を上げたくなるような展開が続く。
    しかし、先述した「ドラマチックすぎない」舞台装置や大道具のおかげでそうした無茶のある設定すらもぬるり、と私たちの思考世界へ靴も履かずに忍びこむ。
    この交差——あるいは、混濁こそが、『ツミデミック』の本懐なのだ。日常の中に溶け込んだ非日常。それは、奇しくもコロナ禍と似たような構図を取っているのだ。

    読後に「この作品に『感染拡大』のテーマは真に必要であったのか」と考えてみた。実際のところ、ストーリーの進行にパンデミックそのものはそれほど大きくは関わってこない。
    しかし、コロナ禍が開けて数年。私たちの多くが既に「過去」として箪笥の奥に仕舞い込んだあらゆるを、本作が「この服まだ着れるじゃん」とばかりにとてつもない印象で甦らせた。
    私たちの心の奥の、さらにその奥の奥の奥。そこで今なお燻る空虚な思い出たち。それを埋めるのではなく、その穴に気付かせる。それがこの『ツミデミック』の大きな「罪」であろう。

さいごに

   ここまでお読みいただきありがとうございました。
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