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時代の流れを読めない人は、お金に振り回される

僕の実家は、金持ちでした。
「ある時代」までは――。

1980年、小学校時代に住んでいた東京都杉並区にあった家は推定2億円くらいで、屋上には太陽光発電のパネルを2基も完備していました。1980年前後に太陽光発電がある家は、そんなに多くなかったと思います。

1階にはサウナがあって、お手伝いさんもいました。

わが荻原家は、もともと祖父が『京橋堂』というレコード屋さんを、まさに東京の京橋で営んでいました。「日本で初めて、複数店舗展開をしたレコード屋」だと聞かされたことがあります。

『京橋堂』はレコードやカセットテープの卸業もやっていました。そこから派生して、カセットテープ専業の『日本テープ』という会社も経営していたのです。

僕の父は、その事業を引き継いでいました。そして、高度成長期からバブルの風に乗って、『京橋堂』と『日本テープ』は、さらに拡大をしていきます。

ビデオテープの卸業をやったり、三軒茶屋ではレンタルビデオ屋を開業し、最近話題の「全裸監督」でおなじみの村西とおる監督の作品も、レンタルされていました。

『日本テープ』は発展を続け、京橋駅の交差点に、8階建ての自社ビルを建てるまでに成長していきました。

僕自身はまだ子どもでしたから、父の仕事を直接見ていたわけではありません。ただ、週に1回くらい部下を10人、20人と引き連れては、家の中でカラオケ大会をやっていたのをよく覚えています。荻原家は夜遅くまで賑やかで、父は多くの部下から「社長!」と呼ばれておだてられていました。

当時、『日本テープ』ではカラオケ用の8トラックテープも手掛けていましたから、時代の先端を走っていたのだと思います。

8トラックテープというのはカートリッジ式の磁気テープ再生装置で、2トラックのステレオチャンネルが4つあったので“8トラック”で、俗に「8トラ」(ハチトラ)とも呼ばれていました。

8トラックテープ(Wikipediaより)

8トラックテープは、当時の家庭用のカラオケ用のソフトとして一世を風靡しました。

今のようなカラオケボックスがでてくるのは1990年前後ですから、ある程度お金がある人たちがハチトラのカラオケセットを買って家で演歌を唄うという時代です。

ただ、テープの時代はいつまでも続きませんでした。

1980年代の中盤になると、世の中の景気も良くなっていきました。六本木のディスコには大勢の若者が押しかけ、深夜のタクシーは1万円札でも掲げて運転手にアピールしないとつかまらない時代です。
日産の高級車「シーマ」が飛ぶように売れ、誰もが「ポケベル」を持っていました。

音楽も明るいダンスミュージックを頻繁に耳にするようになります。

そして、
それに伴って、コンパクトディスク(CD)という技術が出てきたのです。

CDは、カセットテープと違って見た目がキラキラしていますし、気軽に持ち運びもできます。若い人にとって瞬く間に憧れの対象になりました。

特に衝撃だったのは、曲の頭出しがボタン1つですぐにできることでした。それまでのテープでは指定した曲の頭出しをしようとするとキュルキュルと音が鳴り、自分で頭の位置を探す必要がありました。レコードも同様で、自分の手でレコード盤の目的の場所に針を落とさなければなりません。

そんなCDという最新技術に対して、『日本テープ』を率いる荻原家は「そんなの流行るわけがない」というスタンスを取っていたのです。

今では考えられないかもしれませんが、当時は、どの家にもコンポやラジカセと言うステレオ装置が置いてありました。それは、CDの付いていないテープやレコードだけのステレオ装置です。
だから「そもそも、CDプレーヤーが普及していないのだから、CDが売れるはずがない」という発想をしていたのです。

しかも、まだ数が少なかったCDプレーヤーの値段は5〜10万円くらいしましたから「そんな値段のものを誰も買わないだろう」と油断していました。

そう、「油断」だったのです。

しかし、その後、世の中の景気はよくなり、CDコンポはどんどん売れていきます。
小学生だった僕も、同級生が喜々として御徒町の多慶屋に「CD付ダブルラジカセ」を買いに行くのについていった記憶があります。
それに伴ってCD市場も広がり、どんどん値段も下がっていきます。

気が付けば、僕らの周囲は“CDの時代”になっていました。

売り手も買い手も含め、世の中が着々とCDへ移行していくなか、それでも『日本テープ』はテープに賭けていました。なぜなら、当時、レンタルした音楽CDを、テープに録音してウォークマンで聴くというライフスタイルがあったからです。

「CDとテープは共存する」「テープは無くならないはずだ」と。

しかし、結果的には“CDの時代”という流れを読むことができなかったという事実だけが残りました。

今になって思うのは、これは“イノベーションのジレンマ”だったということです。

『イノベーションのジレンマ』というのは、1997年にクレイトン・クリステンセンが、『イノベーションのジレンマ――技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』という本で提唱した、巨大な企業が新興企業の前に力を失ってしまう理由を説明したものです。

当時、『日本テープ』は、「CDという、新しい技術に取り組んでしまったら、これまで自分たちがやってきたビジネスの首を絞めることになってしまう」というジレンマに父は陥っていたのかも知れません。。

そして、その隙に、CDを主体とした新興企業がたくさん出てきて、あっという間にマーケットを取られてしまいました。

CD屋さんも町に溢れはじめ、気が付いた時には『日本テープ』が運営していた町のレコード屋さんではCDの在庫を仕入れることすら出来なくなっていたのです。

消費者というのは、新しい技術や便利なテクノロジーに触れると、元に戻ることができません。

電車の改札が自動改札になったように。
携帯電話がiPhoneに切り替わったように。
コミュニケーション手段としてLINEが普及したように。

「今の段階では特に困っていないから大丈夫だ。変わらないだろう」とあぐらをかいているうちに、イノベーションのジレンマによって企業は瞬く間に淘汰されてしまうのが世の常なのです。

僕の父は、まさにその1人でした。

音楽というものが無くならないように、まさかカセットテープが無くなるとは思ってもいなかった。無くならないと思っていたものが無くなることを目の当たりに経験したのです。

そして、徐々に経営は苦しくなり、
父が43歳のとき、『日本テープ』は無くなりました。
1988年のことです。僕は13歳になっていました。

それから荻原家は、
お金に振り回される、苦しい生活へと変わっていくのです。

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