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片田舎セクマイ発達障害無学歴ヒッキー鬱で人生詰みかけたけど、上京生活保護障害年金就労移行まで漕ぎ着けた話

しかし焦りもやばいんだ。22歳の最終学歴高校中退の発達障害持ちの引きニートを、社会的経済的に自立させ、戸籍性別変更まで導く。私には手に有り余るクエストだ。しかし、為さねばならない。
GID・FtM ホルモン療法経過(2年4ヶ月)|森野舞良|note

とりあえずここまで、為したよ、私。

私はバスが1日3本、電車が1時間に3本という、誰もが車を所持していることが前提で、公共交通機関が中途半端に広がる片田舎に住んでいた。都内までは徒歩 + バス + 電車で片道3時間程度。

私は性同一性障害・FtMだ。20歳でホルモン療法を、21歳で胸オペを、22歳で改名をした。現在23歳。ついでに言うとクィアでパンセクシュアルでクロスドレッサーだ。

私は発達障害だ。ADHDと診断され、ASDも疑いがある。主観としてはASD傾向の方が強いと感じるが、社会生活へ支障を来しているのは診断通りADHDの方だ。

私の最終学歴は高校中退だ。前後して高認に受かっているが、これが求人によくある「高卒以上」と認められるかどうかは微妙なラインだ。

私は高校一年の夏以来引きこもっていた。進学で性別違和が顕在化し、"女子高生"を営めなくなったのだ。カーテンを締め切った自室に数年篭もり、自己のセクシュアリティを見極めた。そしてクリニックを探して通院し、性同一性障害の治療を進めた。

私は、胸オペの手術代を工面するため、飲食店のバイトをした。発達障害に飲食は向かないと知っていたが、他に要項を満たせて自力で通える求人はなかった。当時はまだ診断を受けていなかった——胸オペを済ませた後に発達障害の受診をした——から、ドクターストップも得られなかった。そして当然ながら不適応が生じ、抑鬱を悪化させて辞めた。職歴はこれだけ。そのまま再び引きこもり、通院で貯金が削れていく日々を送っていた。

ハロワへ行こうにも保健所で面談しようにも職業訓練に通おうにも、足がない。薬の副作用でふらつき・注意力の低下があって自転車には乗れない。歩くと車道に身投げしたくなるし、徒歩で片道1時間は心が先に折れる。第一、発達障害向けの就労移行支援なんて皆無だ。——このままの実家暮らしでは、貯金が尽きた時点で詰む。
上京すれば、公共交通機関も、私に届く福祉も、発達障害が就労するためのサポートも、履歴書ホワイト人間が生きていく術もあるだろうと思った。だが、賃貸を借りられるだけの社会的信用も貯金もないし、親戚の家を頼るには自己肯定感が欠落していた。

そんな中で、元アルバイト先へ通称使用証明の一筆をもらいに行ったことが、入院に至るまでの抑鬱症状悪化の原因であったと、私は考えている。
疎まれながら1年働き、辞めた後はそのまま半年音信不通にしていた。そこへ突然の連絡からの、最終月の給料の支払いと、深夜手当が適用されていなかった分の支払い請求なんてのをしてしまったものだから、彼らの評価は疎ましいを通り越して鬱陶しいの領域に突入していたことだろう。
だが、労働基準法が定める通り、これは労働者の権利であり、また彼らは疎むでなく、ただ解雇通知を出せばよかっただけの話なのだ。つまらない人情やサンクコストに捕われ、ろくでなしを雇い続けるなど、実に馬鹿げている。
まあ、当の経営者から「労働基準法だか何だか知らないが」という、録音していたら店ごとぶっ潰せる爆弾発言——つまり、そもそも解雇できることを知らなかったんだな——をもろに浴びたりとか、もう日本語が通じないからこれ以上の話は労基を通じてしようと思って帰ろうとしたら通路を立ち塞がれ軟禁されたりとか、「俺の中ではずっと"(改名前の女性名)ちゃん"だったから」——職場での呼称はずっと"(通称の短縮形)くん"だった!——といったジェンダーハラスメントも受けたりとかしたが、どうにか貰うものを貰って、精神的外傷も貰って。そしてその晩から、寝ても覚めても死にたいと乞い続ける日々が始まった。
で、最終的に抑鬱と自殺企図で3ヶ月入院して、その入院費が払えずにいよいよ詰んだ。

私の家族は母一人きりで、そんな唯一の家族を悪し様に言うのも何だが、まったく貯金をせず、将来を考えない人だ。幸い、伯父や伯母が全額を立て替え、さらには「これはお見舞いだから返さなくていい」とまで言ってくれて、入院費に限っては解決を見た。
しかし、鬱で自己肯定感が地の底にある状態でこの言葉を正しく受け取るのは至難の業で、どうしたって負い目引け目に付け回される。そこへさらに将来の暗さが影を落とす。また入院沙汰になったら。そもそも、毎月の通院費は。今後の生活は。引いては、私の人生は。

これらの危惧は私のみのものではなく、入院時に担当となった病院の精神保健福祉士さんも、大いに心配してくださった。そして、「まず改名と障害年金の申請を行い、退院後、病院がカバーできる区内に転居して世帯分離、生活保護と障害年金を受給しながら、就労移行支援を受けるのはどうか」と提案された。私は乗った。
担当医から止められていた入院中の改名手続きも、フルネーム誤称で自殺未遂した結果ゴーサインを貰って申請まで行えた。子離れできておらず、私と別居したくないと言い続ける母からも、現状の説明と説得を重ねてどうにか同意を得た。生活保護に強い不動産会社を紹介してもらって、狭くて——私は狭い方が好きだ——安い、初期費用が23万という貯金額ギリギリの物件を見つけ、契約を取り付けた。

キャリーカートと大きなボストンを母と一緒に運んで引越を済ませ、母に貸していたお金を家電を買ってもらうという形で返してもらって、にわか仕立ての一人暮らしを始めた。3週間ほどして生活保護の給付が始まり、経済的問題はひとまず去った。そして、就労移行支援の事業所探しを始めた。

就労移行支援の事業所は、いくつか受け取ったパンフレットの中から気になったところへ見学と体験に行った。内容はOA事務系。しかし私には役不足(原義)だったらしい。独学のタッチタイピングや、Googleスプレッドシートやドキュメントを触っていた経験が大いに役立った結果、最終日の面談で「ここで教えることはもう無いように思う、デザインやプログラミングといった目標が定まっているならば、もっと特化した事業所や、専門学校などに通うのがいいのではないか」とのお言葉を頂いた。

その後、自分でググって見つけたところへ見学と体験に行って、そのまま体験継続という形で通いながら利用申請を進め、10月の頭に受給者証が発行され、現在本利用中だ。
ここは発達障害に特化し、IT系のスキルを上げて一般就労を目指す事業所。場所は都心、ドアtoドアで45分。1ヶ月定期が買える頻度の通所になると、翌月分の定期代を生活保護費から先払いしてもらえて、交通費の一時負担がなくなる。月5000円強は結構痛かったので有り難い。
私が取ったカリキュラムは、UnityとC#でのゲーム制作。手元のまっさらのプロジェクトが、確かな"ゲーム"へと出来上がっていくのは、成功体験の積み上げとなって、実に精神衛生にいい。

私の場合、家賃を代理納付——直接大家さんへ振り込んでもらう形——にすると、月々7万ちょっとが手元に来る。07月から生活保護を受け、月3万での生活を目標に貯金をし、この10月にはUnityが動くMacBookPro(整備済製品、12万弱)を買える額になっていた。08月にホルモン + 前回払えなかった診断書代合わせて4万弱を払ってなお、だ。そして文筆もできるようになり、こうしてnoteを書いている。この国の定める最低限度の生活は、私が身構えていたより、だいぶリッチだった。

これはもちろん、可能な限りの節制をした上で成した貯金、だが。近く数店のスーパーのチラシはきっちり確認し、特売のペースや底値を把握した上で買物する。月に数回業務スーパーへ足を運び、格安の食品を仕入れる。中食外食は基本しない。高いし味付け濃いし。細かな雑貨は自作で賄う。チラシでカゴを編んだり、ワイヤーでS字フックやカーテンクリップを作ったり。見送った新刊の数は数えないことにした。基本的に、食べ物以外を買っていない。
また、使える制度は全力で使っている。家具家電を買うときは、可能な限り生活保護の家具什器費の申請をした。就労移行支援事業所への見学や体験通所の交通費も、生活保護期間における就職活動の経費として支給が下りると教わって、申請している。ちなみに東京都の制度で、就活用スーツも1着買えるそうだ。
役所では、保健師さん、ケースワーカーさん、発達支援コーディネーターさんなど、頼れる人は全力で頼っている。

障害年金もどうにか2級が通り、給付も始まった。その分の生活保護の戻入金の納付が随分と面倒な手続きになっているが。"特定区指定金融機関"が一体どこなのか、ググっても見つからないってどういうことよ。素直に郵便局に行ったけど。そして窓口の営業終了16時に引っかかって出直したけど。障害者手帳の申請は、診断書代を浮かすため自立支援医療の更新と合わせてやろうと思って……いるんだが、この自立支援医療の方も、居住地変更・保険区分変更・所得区分変更と、変更の荒波の中でいつしか医療機関がすげ変わってしまい、目下修正待ちだ。また更新申請の日付が先送りにされてしまいそうな気がしている。

さて、自己肯定感が地の底どころかブラジルの天空なので正当に認識できていないのだが、私は優秀である。
高校卒業程度認定試験は、本来ならば高3夏となる時期に、"これ一冊で合格"と題打たれた参考書を買って、2ヶ月ほどそれだけをやって、そして一発で受かってしまった。家で授業を追うなどビタイチせず、ネトゲに溺れていただけの2年間だったのに。
聴覚的聞き取りの弱さや左右盲に苦しめられた自動車教習所も、MTを規定の日数で修了した。
出し抜けに始めたこの一人暮らしも、すでに4ヶ月、つつがなく暮らしている。
事業所のカリキュラムの進みも早い。スタッフさんに「もうこれやってるの」とたびたび驚かれる。
なので、このnoteのクソ長タイトルは若干釣りだ。"漕ぎ着けた"のは、人の力や運の他、私に実力があったからだ。

しかし、自己肯定感が低いので本当に辛い。入院してからこっち、私に下される評価は「しっかりしてる」「そつがない」といったものばかりだ。私はそれを過大評価にも程があると受け取って、その評価にそぐうよう、期待に適うよう己を律し続けて、毎日勝手に疲弊している。張り詰めた弓の震える弦は、もうじきぷつりと切れるのだろう。まあ、現状ならば、また入院沙汰になってもお金のことを気にしなくていいので、構わない。

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