えかきの夫の絵に囲まれてしあわせを求めてシンプルに生きる外国人妻
言うまでもなく松下幸之助はとっても有名なお方
えかきのつまは松下ではなく日本でも珍しい名字、松ノ下が旧姓である
實を父親にそして尾竹麗子を母親の長女にこの世に誕生した
日本から一番遠い国、地球の裏側?表側?のアルゼンチン、世界遺産のイグアスの滝がある、ミシオネス州のオベラで1956年8月15日生まれた
実は幸之助さんの之が松之下には入っている
全然関係のない話です、ちょっと言って見たかっただけ
両親は鹿児島出身である
1955年に移民として外国船ボイスベン号でアルゼンチンへ
父はもっと広大な土地で大きな農業をしたくて、あまり気乗りではなかった母は親戚に”夫について行くのが務め”と説得され決心
日本で1952年に生まれた長男優二と三人で長い船の旅は神戸から出航
三か月近くの船の旅では母はず~と船酔いをしてて、不思議なことに陸に上がると治っていたそう
神戸を出航したボイスベン号はインド洋、アフリカ経由で南米へ
アフリカ航路の場合、香港、シンガポ-ル、コロンボ、モンバサ、ザンジバル、ダルエスサラ-ム、ベイラ、ローレンスマルクス、ダーバン、ポート.エリザベスを経て、ケープタウンに44日目に着、
サントスには56日目に到着したそうです
アルゼンチンへはあと何日かかったのかしら?両親からは日本—アルゼンチンは三か月程と聞いている
ペロン大統領の独裁政権、クーデ-タの真っただ中ブエノスアイレス港に着く
銃の弾が飛び交うことに驚きを隠せなかったとえかきのつまは想像する
初めて味会うアルゼンチンは両親と兄にはどう映ったのかしら?
ブエノスアイレス、アルゼンチンの首都が終着点ではなく、あと1300km北へと汽車で移動して目的地へ向かうのだけれど、どこへ連れていかれるのだろうと不安でいっぱいだったと思う
次の年には、えかきのつまが生まれ、三か月後には兄は事故死した
何故日本からこんなに遠い国へ移住をしたのか後悔の気持はゼロではなかったのでは?
長男、優二を事故死させたのは、両親の頭、心の中では忘れることの出来ぬ、そして取り返しのつかない責任を背負って過ごした人生ではなかったでしょうか?
子沢山に恵まれて、えかきのつまに続いて四人がこの世に誕生したので、六人きょうだいです
絵かき小川憲一豊実は(おがわけんいちほうじつ)昔の時代を絵にするのは、写真を参考にしながら描くこともある、例えばこの時代の、瞬間を絵にしたら
幼い頃の思い出はあまりなく、と言うか覚えてないのが正しいかも
おぼろげに思い出すのは自然相手に楽しんでた、ジャングルの中のターザンのような
栴檀の実の投げ合い、男子は木登りして上からどんどん投げるが女子は投げられた栴檀の実を拾い投げ返すのですが、上へ向かって投げてもぜんぜん当たらないのである
アリの行列を見つけては、観察したり、ちょっと意地悪をする
アリの道を遮り、どうするのかと観察する
不思議だったのは自分の体の何倍の大きさの葉を運ぶこと、アリはとっても働き者である
蟻地獄の巣で遊ぶ
アリジゴクってどんな生き物?
正式な名前はウスバカゲロウ
アリ地獄は罠の仕掛け名人
一度はまったら脱出不可能
大きな顎を瞬間的にのけぞらして土を放り投げると細かい粒は手前に落ち、大きな粒は遠くまで飛びます
アリが罠にはまるとどんどん砂を投げつけ、アリジゴクから脱出しょうとするのを妨害するので恐ろしい!
アリジゴクはアリの体液をすって、他の部分を捨ててしまう、ホラ-映画のよう
アリジゴクは一年から二年ほどでさなぎになり、その後一か月で成虫になるとはえかきのつまは知らなかった
成虫はウスバカゲロウと呼ばれ、すきとおった羽が美しい昆虫
はかない命が歌に詩に歌われるが、一か月以上生きる
自分の長い髪の毛を一本抜いて、先っぽにアリジゴクを縛り付けて巣の上で動かすと面白く,巣にいるアリの仲間がくっついてくる
無口だったえかきのつま、考えてみれば自然相手に遊んでいれば話す必要はまったくないのである
ミシオネスには毒蛇がいるので、気をつけないといけない
両親がまだ生存している頃、父が笑い過ぎで、涙を流しながら、楽しそうに話していた
ある日まだ三人きょうだいだったころおつかいに行かされた
4キロほどの距離を遊びながらのんびりと行く,帰る
両親は農業を
畑に行く細い小道に大きな毒蛇が見えた、慌てた子供たちは叫ぶ、へびだ~、と
毒蛇は恐ろしいと聞かされてた三人はまた叫ぶ
父親は近寄り太くて長~い棒で叩いて、殺した?と思ってた
それが違っていて、父が前もって殺した後に毒蛇を小道においたと毎回笑い転げるほどに面白がって、思い出しては話された
アルゼンチンでは四度の引っ越しを、二度目のハルディンアメリカでは土地を購入して、開拓を
農機具などなく、勿論車も
人里離れた場所で、一番近いお隣さんでも多分2.3キロは離れていたと思う
まだえかきのつまとおとうとしか生まれていない頃のエピソ-ド
両親はまた畑へ仕事に、で二人は家で留守番を
ある日、雨が降る前だったのか移動アリが庭中にびっしり真っ黒い絨毯のように多くいた
二人は考えた、大変だ~アリを退治しなくてはと
親が畑で白い粉を撒いてアリを退治していたのを見て知っていた
食品庫に大切に保管してあった小麦粉を薬に見立てて、二人でせっせと広い庭中にまいた
仕事から帰った両親はびっくり、庭は小麦粉で真っ白、大事な食料は台無しにしてた
このことを何回聞かされたことでしょう
大笑いしながら話す父でしたが、えかきのつまは驚いていた表情だけが記憶にある
良い行いをしたと思った二人とお金もなくやっと買うことが出来た小麦を台無しにされた両親、お互いの思いは極端であったろう
その時に住んでいた家から小さな町までは20kmの距離
小さかったので、記憶には残っていないけれど、えかきのつまはテーブルの角でおでこ、眉のすぐ上を打って、出血が止まらず、医者へ連れて行った
車はないので、父はえかきのつまを抱っこして徒歩で医者へ
今でも残っている傷跡を眺めると胸が締め付けられる
親は子を思う、そして子は親を思う
自分が親になり初めてわかる親の気持もある
アルゼンチンでは学生の夏休みは3カ月ほどある
経済的余裕はなかったのでバケ-ションへ行くには縁はなく、家や畑の手伝いに明け暮れた
子供なりに楽しんで、青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言うけれど、ハイスク-ルの頃には父は製材所もしており、夏休みには父、おとうととえかきのつまは山へ泊りがけで15km程歩いて通った
お手伝いだったのか、遊びに行ってたのか不確かである
干支は申、関係あるかもしれませんが、木にぶら下がっているツタでターザンごっこもした
ひゅ~んと父がトラクタ-で木を引っ張って通る上を行ったり来たり
現在の子供達には多分理解不能な楽しみ方ではないでしょうか?
自然の中、ほぼジャングルのような所で過ごしたのが私たちの夏休み
いつの時代の話ですか?と問われそうですが、このようにして親を助けながら?遊んでた
こんなことも、おとうととわたし、自分たちよりも高く伸びた雑草を刈っていると、通りがかりのトラックの運転手さんが、ゆらゆらと揺れる草の中に動物でもいるのではと車を止め近づいてこられ驚く
「Pensé que era una puma」ピュマかと思った
語り切れないほどたくさんの幼い頃のエピソ-ド、思い出は多々ありますが今回はこの辺でキ-ボ-ドを止めます
19歳でブエノスアイレスへ行ったときにえかきとの出会いがあり、今に至っております
結婚生活は50年に、金婚式に手が届きそうになりました
何もなかったとは言いませんが、人生は楽しい時間ばかりではないと考えるえかきのつまになった外国生まれ育ちの自分は、いつも同じ過ごす一日はできることならば有意義な時間であって欲しいとプラス思考で生きて来た
そしてしあわせになりたいと思うのはみんなそうだと思う
一人でもえかきのつまと知り合ってよかったと思って下さる方がおられたらそれでえかきのつま、マリアイネスはちょ~しあわせ感じます、感謝いたします
一部の写真、若い順より
さてと、えかき小川憲一豊実が描く作品を少し紹介させていただきます
今回はつまの話なので主に自分を描いた作品とアルゼンチンの景色を、油彩とか水彩とかに基本別けたくない強情なえかきですが、わかりやすく妻は別けました
小川憲一豊実(おがわけんいちほうじつ)が描く 日本画
えかき小川憲一豊実の水彩画
小川憲一豊実が描く油彩画
小川憲一豊実が描く水墨画、妻は好きである
誰が見ても確かに最後の水墨画は一番年を召していると思うことでしょう
今からまだまだ老けていくので、この絵は何年か過ぎれば若いと言えるかも
えかきのつまの絵をいっぱい描いてもらってしあわせですね~とよく言われるが、ただモデル料を払えないだけのこと
鹿児島山形屋や何処かもう忘れましたが、えかきのつまの肖像画を拝見し、実物の私を拝見
何と失礼な言葉を発する人がおられる 「嘘じゃろ~?」とまじまじ二度,三度繰り返し首を振り振り両方を眺めながら言うのです
事実だから怒らない、みんなが行く道ですもの、誰もが通る道ですもの
小川(松ノ下)マリアイネス拝