幸福罪

今日もパズルのピースを失くした

どれだけ丁寧に管理してようと、ふと気を抜いたときに失くなる。

そして、突然見つかる。

中には、一生見つからないものもある。

神に隠されたかのように。



付けっぱなしのテレビは残酷なニュースが映っている。

若い女が人を殺したらしい。原因は嫉妬。



思えばいつだって、幸福は残酷だ。

やっと手にした幸福も、第三者の不幸によって淘汰される。


祖父は聖書が好きだった。

無信教の私には到底理解できないが、ある一節だけは覚えている。

アダムとイヴが食べてはならない知恵の木の実を食べたとか。

彼らにとってはある種の幸福を追い求めたのかもしれない。

だが、神の不幸に触れて「原罪」を背負った。

アダムとイヴは私たちの先祖だから、私たちもまた「原罪」を背負う。



誰かが追い求めた幸福は、誰かの幸福を踏みにじる。

そして、不幸を与える。

これも「原罪」なのかもしれない。


よく考えれば当たり前のことだ。

そして、どうしようもないことだ。

弱肉強食は生物としての本能だ。

先に幸福を掴んだ者が勝ち、それ以外は相対的に不幸だ。

いわば、パズルのピースを先に埋めたもの勝ち。


でも、神は「原罪」を許さないのだろう。

ピースは時々失くなる。



公民の授業で幸福追求権なんて習ったっけ。

結局、「原罪」から逃れられない私たちは「幸福」という現実逃避の安寧を求めたのだろう。

「幸福」なんてただの概念に過ぎない。

好きな人と結ばれても、嫉妬に泣く人もいる。

大金を手にしても、貧乏人は今日も債権管理に泣いている。

それでも、私は「幸福だ」なんて胸を張って言えるのだろうか。


椎名林檎は「君が其処に生きているという真実だけで幸福なのです」なんて歌っている。

あながち間違ってはいない。

それだけで幸福論を済ませることができるならばの話だが。

悲しいことに、好きな人が其処にいたら手に入れたいのが人間の本能だ。



「原罪」はおろか「七つの大罪」まで背負っている人間は愚かだ。

しかし、この呪縛からは逃れることなど、相当な悟りを開かない限り無理であろう。

なるほど、出家したら確かに極楽へ行けるのかもしれない。


さて、私たちは「原罪」に縛られ、今日も明日も、明後日もありもしない桃源郷を目指す。

単なるパズルの枠に囚われ、もがき苦しむ。


本当に幸福になりたいのであれば、アダムとイヴでも恨むといい。

失くしたピースはエデンの園で見つかるかもしれない。





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