未完了と再評価
感情、考え、行動 を切り分けて、そこに歪みがないか、眺めてみる
再評価する
トマス・J・レナードのファウンデーションがこれに似ている。譜系をたどれば一緒なのかな。認知行動心理学か、どうだろう。
簡単に書くと、幼少の頃(~小学校まで)にあった嫌な思い出、モヤモヤしたことなどを思い出して、まずは眺めてみる。自分がどう思ったのか、それが今の行動に悪さをしていないか、ということである。
振り返ると家を出てからの年月が、人生の半分ほどになってしまったし、今更親にイラつくとかあまりないし、自分に不要なことは聞いたふりして流せばいい…と思いがちだが、今ファウンデーションのワークに参加しているので、ほじくり返して眺めてみているが、結構大変。
決断するのが遅いと、言われることがあるが、どうにかしたいと思っている本人すら、なぜなのかが言語化出来ていなかったが、仮説が浮かび上がってきた。
両親は、いい大学へやれれば、いい就職先が見つかると思って、親の思う範囲で、幼少期から「勉強」の機会を与えてくれた。一方私は幼少から工作や絵を書くことが好きだったけれど、そこはスルー。具体的には、私の同意はほぼなく、学習塾系については親のいいと思うレールをガンガン引いていって、親や教師(学習)が絶対という価値観で素直に従って生きていた。
世に言う毒親ほどでもなかったことと、素直だったこと、第二子だったこと(兄がいい意味でも悪い意味でも手本になった)、勉強がそれなりにできれば親も機嫌がいいし、楽で依存していたのだと思う。ただそれが、私にとって「決断や試行錯誤の経験をしなくていい状況になっていたこと」でもあったと思う。
このような時期を学生時代過ごしたことを振り返って、全てではないが節目になるような大きな決断には、判断のための様々な情報が欲しくなるし、時間がかかる。この一人で決める慎重さや、人の目や評価が気になっていることが、時として悪さをしているのかもしれないと、思っている。
この幼少のころの嫌だった・もやもやする感情を見つめ直すワークの意味は、例えば小学校の時のある担任の先生が大嫌いだった。大人になっても先生という職業の人や自分より目上の人に対して、嫌悪感を抱くため、仲良くはなりたくない。こういった極端な思い込みや激しい感情が、自分らしさや良き隣人を遠避けて、行動を邪魔していないかを、点検するということである。
一応ワーク中にはプロコーチがいて、分析はしてくれているが、先程の私のナラティブなストーリーの自己分析が合っているのか正直わからない。一旦その時の気持ちや、今の苦々しさを眺めている状態で、これからどう再評価するか。このワークを通して、自分らしくあるための選択と行動をできるようになる思考を持つべく、今その所作の一部を体験している感じ。
幼少期に受けた周囲から、特に親の呪いのようなものが原因に多い。人生において同じようなところで躓いたり、まずい反応を繰り返してしまったりと、未だに抑圧的な思いが原因で、自分を否定したり、大切にできなかったり、自らの人生を歩めていないのであれば、まずはその感情をじっくり眺める。
その正体について、判断をせず、感情を眺めるのが最初の手段で、急に解決する話ではない。
①思い込みや極端な(非現実的な)信念を持っていることに気づく
②それについて良い悪いを判断せず味わう(認める)
③のち再評価する
④このサイクルがいつでもできるようになる
というステップが、何かしらの解決に向けた動きになるので、今①→②を体験している、ということだと思う。
先に紹介した内田さんの新書「ソーシャルジャスティス」を読んでいる。マイクロアグレッションのあたりで、過去受けた仕打ちにムカムカしているが、自分もしている(いた)ことにも、毒が回っている感じもある。
この本についてもnoteで書ければいいなとおもっている。