『高田明と読む世阿弥』を読んでみた

本書はジャパネットたかたの創業者である高田明氏が、600年の時を超えて出会った盟友「世阿弥」について、自身の経験と照らし合わせながら「昨日の自分を超える」というテーマで綴った一冊です。

ビジネス誌「日経トップリーダー」の連載「高田明と読む世阿弥」を再構成し、大幅に加湿。能研究の第一人者、増田正造氏が監修し、初心者も楽しく読めて内容の濃い解説4編を寄せています。

誰かと自分を比べて息苦しく感じている人、伝えたい想いが伝わらないなど、社会生活の中で誰しも感じる悩みや不安にも直結する内容となっています。

■書籍の紹介
高田明と読む世阿弥
高田 明 著
増田 正造 監修

高田社長と世阿弥の出会い

高田氏と世阿弥の出会いは、社員から高田氏の考え方と世阿弥の考え方が似ているということで、世阿弥の書籍を渡されて読んだことがきっかけだと本書に綴られています。社員は「高田社長の視点で見た時の世阿弥への感じ方が知りたい」という事で、本を高田氏に勧めました。

世阿弥といえば、室町時代に能の基本を作った能役者であり、「初心忘るるべからず」「秘すれば花」という言葉を唱えた人でもあります。足利義満の寵愛を受けたことで、能を世に拡散し絶頂期を迎えたものの、義満の死と共に不遇の時代を迎え、晩年は佐渡に流されてしまった人物です。

通信販売と能。形は違えど、いかにお客様に伝えるかという視点はどちらも共通するものがあります。そういった高田氏なれではの視点で、本書は語られています。

男時と女時を見極めた行動をする

自分の実力や努力は関係なく、何をやっても上手くいくときもあれば、それとは反対にどんな手を尽くしても駄目な時があります。世阿弥はそれを「男時(おどき)」「女時(めどき)」と表現していたそうです。

男時は勝負ごとにおいて自分のほうが勢いがある時、女時は相手に勢いがある時を言います。世阿弥の時代で、能は「立合」という形式で、互いの芸を競い合っていたそうです。審判はおらず、どちらのほうが見栄えが良いか?評価がもらえるか?という視点で勝敗が分かれたそう。

これはビジネスにおいても通ずるものがあります。売上や数値が拮抗している時や、業務自体が数値目標を追わない職種もあるでしょう。その際、見栄えや評価をもらうために、どういった行動を選択するかは非常に重要です。そして、男時もあれば、女時もあるでしょう。そこを見極めて行動を起こす、耐え忍ぶという観点も必要です。

男時は果敢に攻める。女時はじっと耐え忍ぶ。

自分ではどうしようもないことなら、それに翻弄されたり、抗うことはせず受け入れる。何かが変わるのを待つことが大切だと、本書では語られています。高田氏も創業期や長い経営生活の中で、売上に苦しんだことがあったと言います。「大口顧客の突然の解約」「完全に地デジ化された後のテレビの売上減」などがエピソードとして挙がっていました。

高田氏いわく、男時は果敢に攻める。女時はじっと耐え忍び、やがて来る男時に飛躍するための英気を養う。仕事にせよ何にせよ、心に無用なさざ波を立てずに生きていく秘訣はこの一言に尽きると語っています。

一心不乱にやれることを全て実行した上で、それでもどうにもならない場合、そこまでやったのであれば、最後は神様が助けてくれる。そういったマインドがベースにあるとのことです。今に200%、300%のエネルギーを注げば、おのずと道は拓いていきます。

悩みの99%は、悩んでもどうしようもないこと

高田氏は人の悩みの99%は、悩んでもどうにもならない事だと言います。自分には変えようがない、過去や他人に気を取られ苦しんでいるのです。高田しは、起きたことを全て受け入れ、どう変えていくかだけに全力を注ぎ、今のジャパネットたかたを作ってきました。

例えば、500個は売れると思った商品が100個しか売れなかった時、高田氏は「商品自体はすばらしい。売れなかったのは、商品の魅力がきちんとお客様に伝わらなかったからだ。紹介方法を軌道修正して、次は500個を超えよう」と考えます。

目の前でおこなった出来事をどう解釈するかは、自分次第です。悲観的になれば消極的になり、楽観的に考えれば前進する力になります。ただの楽観主義者では、物事を達成するところまでは持っていけませんが、問題や出来事を漫然と傍観するのではなく、次にどうするか?を前向きに取り組むことが、自分の目標達成に繋がります。

失敗や挫折を乗り越えた努力=初心

冒頭でも紹介した「初心忘るべからず」という言葉ですが、これは世阿弥が能楽の奥義を記した「花鏡」に記されています。実は、世阿弥の解釈と、今日我々が使っている意味は、異なっているそうです。

普段は「物事を始めた志を忘れずに、ひたむきに取り組め」という意味で、我々はこの言葉を使います。しかし、世阿弥は「芸の未熟さ」を指して初心と言っており、無様な失敗や挫折感、それを乗り越えるために重ねた努力を忘れてはいけない、という意図でこの言葉を唱えたそう。

自分の「努力を積み重ねる姿勢」これを忘れずに、1日1日と向き合えば、常に自分を戒められます。そしてさらに成長することができます。日々に慢心することなく、成長を続けてこれた高田氏の軸は、実はここにあったのかもしれません。

初心は若者の専売特許ではない

普段使う意味でも、上記で述べた本来の意味でも「初心=若い時、経験が浅い時」という印象を受ける人は多いでしょう。しかし、世阿弥は「花鏡」で、3つの初心をあげているのです。

「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」

上記の意味は、修行を始めたころの芸の未熟さを忘れてはならない。年を重ね経験を積むとともに、刻々に味わう芸の難しさを忘れてはならない。老後を迎えたときも老年の初心を忘れてはならない。という意味になります。

その都度、「初心=今の自分の未熟さ」を心にとめていれば、成長に限界はなく、幾度と訪れる壁や階段を突き進むことができます。それは年齢や経験問わず、常に新しい成長を探し続けることともとらえることができるかもしれません。

毎日、新しい初心を発見することが成長に繋がる

高田氏は本書で、世阿弥は「初心を忘るれば初心へかへる」とも言っていると紹介しています。これは、自分が未熟だったことを忘れたならばどうなるか、慢心してしまい、元の未熟な状態、もしくはそれ以下になってしまうということを示唆しています。

高田氏は、毎日が新しい初心の発見の連続と考えていると言います。果てしない初心の積み重ねこそが、自分と会社の成長につながると信じているそうです。高田氏はすでに社長の座を退き、今は老後の初心を日々感じているそうですが、遅かれ早かれ皆、老後を迎えるわけです。そのタイミングで、自分の人生や価値観をどう思えるか?それは毎日の初心を発見し続けるかどうかで、絶対的に変わってくるはずです。

今の自分を完成形だと思った時、成長は止まる

まずは世阿弥の言葉を紹介します。

「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花なほ遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷て、やがて花の失するをも知らず」

意味としては、一時的な花を、まことの花であるかのように思い込むと、真実の花になる道から遠ざかる。にもかかわらず、誰も彼もが、この一時的な花を本物と混同してしまう、という内容です。

時分は、適当な時期、好機を指します。まことの花は生まれ持った才能に加え、努力によって高められた能力のことです。芸の世界でいえば、時分は初年・青年期で「若さによる一時的な花の珍しさ」ということであり、まことの花は才能と努力によって高めされた能力を指しています。

つまり、若い時期にチヤホヤされるのは一時的であり、努力の積み重ねを惜しんではならないと、説いているのです。自分を高めようとする、成長意欲がない、今の自分が完成形だと思ってしまうと、そこで成長は打ち止めとなってしまいます。

昨日より今日。自己更新の心構えを常に持ち続ける

高田氏が何か言葉を書いて欲しいと頼まれた時に、いつも書いている言葉gあります。それは「夢持ち続け、日々精進」です。高田氏は、どんなときも夢を追いかけ、昨日より今日、今日より明日というように、日々少しずつでも自分を成長させようと励んでいるとのこと。

常にライバルは自分自身。他人と比べるのではなく、自分史上最高を目指すことが必要と言います。自分自身の中に課題を見つけ、修正する。それが達成出来たら、次の課題に取り組むことの繰り返しです。

年齢を重ねても、成果を出して評価されたとしても、「自分はまことの花」だとは思わないこと。おごらずに謙虚である姿勢が、精進を重ねるためには必要です。

「誰かを超えたい」そんなレベルでは信念にはつながらない

ライバルが自分自身だと考えると「誰かを超えたい」というような発想自体が出てきません。自分自身を突き動かすものは、信念や志です。高田氏は「お客様に感動を与えたい」と本気で想い、それを達成しようとする強い信念をもって、その一瞬を一生懸命に生きてきたと言います。

一途にやり続けるのにも力が要ります。継続するためには自分を信じることが必要です。自分を信じることができないから、途中で諦めてしまうのです。そして、信じるだけでなく、自分自身を疑うこと。謙虚に受け止めて、自己更新を続けることが重要です。

高田氏はまだまだ成長の途上にあると信じていると言います。生きている限り、自己を更新するという生き方を貫くことが、高田氏の志だと言えるでしょう。

受け手側の新鮮な感動を自分の原動力とする

うまくいっても次がある、完成はないと考えることが重要だと、高田氏は語ります。以前、テレビ通販番組で寝具を紹介したことがあり、その商品を1日の6回紹介して、6回目に一番多くの注文を頂いたと本書の中で紹介されています。

通販の世界において、同じ商品の注文数を伸ばすことは非常に難しいと言えます。どんなに良い商品でも、紹介し続ければ目新しさは消え、既視感を感じてしまいやすいからです。毎回紹介方法に修正を加え、まだ足りない部分があると、模索し続けた結果でしょう。

しかし、高田氏はこの注文数の増加に満足はしていないと言います。その理由は、6回目の商品紹介を最初にできていたら、もっと多くの人に届けられていたからです。

人は成功すると、同じやり方を続けたくなるものです。しかし、それでは新鮮さも驚きも失せ、成長することはできません。世阿弥も役者に必要なのは「花」だと考え、新鮮さと驚きが全てだと唱えています。一度演じて好評だったからと言って、そのやり方を繰り返していると、魅力は消え失せてしまうと考えていました。

自分に終わりはあっても会社は果てるべからず

高田氏は2015年の1月16日で、ジャパネットたかたの社長を退任しています。なぜこのタイミングだったか、それは今なら社員たちに任せられると思ったからだと語られています。会長や相談役としても残らずに、テレビ通販番組も、退任の1年後を最後に卒業したと言います。

世阿弥が生きた室町時代は、後に戦国時代に向かう混沌とした時代です。その中で世阿弥が考えたことと言えば、どうすれば「能」は受け継がれていくのかということです。世阿弥は「花鏡」にてこう書いています。

「命には終りあり、能には果てあるべからず」

言葉の通りですが、命には限りがあるが、能という世界は果てがないということです。高田氏も経営者として、企業の最大の価値は永続することにあると言います。高田氏はジャパネットたかたを100年続く企業にしたいと本書で語っています。

その中で、高田氏がいつまでも社員の先頭に立ってリーダーシップを発揮していたのでは、100年続く企業にはなれない。そんな想いがあったと言います。自分には終わりがあるが、会社は果てない。そんな覚悟を決めることが、次世代に何かを残せる人の思考にはあると言えるでしょう。

まとめ

本書を選定した理由は、自分が成長したことに慢心している節があったため、そこを見つめ直したいという点からです。また、菊池社長とのMTGの中で誰をライバルとしているか?という問いに対し、いつも議題にあげてしまう人物が頭に過ったのですが、それではダメだという指摘を受けたことで本書を手に取りました。

本書を読みながら、先週社長から受けたフィードバックを思い出しながら、自分の小ささを痛感しました。結局のところ、私が比較対象としていたのは「過去の自分」「すでに並んでいる人物」です。そこに囚われながら、自己評価をしていた事が、私の最大の問題点でした。

菊池社長いわく、私が今頭に描いた人物は、ライバルとするには「全然大したことない、比較対象にしてはダメだ」ということでした。そこを見ていては結果を作れないという事です。

自分にとってのライバルは自分。よく聞くセリフではありますが、自分と同じ役回りが他にはいないという事もあるのと、慢心しやすい自分にとっては、一番良い比較対象です。今後は、昨日の自分を超える、1ヵ月前の自分を超えるという視点で、業務に打ち込みます。






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