元々、理由があって調整することはあれど、私は内服薬を忘れることは非常に少ない。少なくとも、絶対に忘れてはいけない免疫抑制剤や抗がん剤、抗生物質(あえて総称)を忘れたことはない。

けれども、最近ST合剤(バクタやダイフェンの名前で出回っているやつ)は最近月曜日に忘れて、火曜日に飲むことがある。連日じゃない薬は忘れやすい。プロゲステロンなども忘れやすい。エストロゲン(厳密にはestradiol)だけ塗って、プロゲステロンを忘れると子宮体癌などを発病しやすくなる。なので、プロゲステロンも重要だ。(忘れて開始日がズレても、一日抜けても、結局は毎月飲みきることは欠かさない。)

ST合剤に話を戻すと、以前ST合剤をやめた時に再発したし、G-CSF(グランやneupogenなどの商品名のやつ)などの投薬時に病状が悪化した。好中球の数と病勢には相関があるのは、自己免疫疾患ではあるあるだ。また、PCP(旧カリニ肺炎で知られるニューモシスチス)に感染するのも非常に厄介だ。あれは、脳にいくこともあるから、たちが悪いし、特にかかりたくない感染症の一つだ。ステロイドに他の免疫抑制剤も入っている身としては、私自身がどれくらいの免疫力かは分からないけれども、ST合剤は安易には切れない。

正直、内服薬も結構よっぱらに感じている。標準語でなんて言うんだろう? I'm tired of it (Ich bin satt)....的な…… (言葉って難しい) (ネットで日本語検索したら、「うんざり」と書かれている。けれども、微妙なニュアンスが違う気がする。)

あ〜あ〜、治療が必要ない健康な状態になりたいなぁ。

治療が可能だというのはありがたいんだけど、もしも、健康で好きなことなんでもやり放題で、薬も処置も検査も不必要な健康状態になれるのならば、心からそれを願う。

治っちゃわないかなぁ。

祈ったり、信じたりすれば治るかはさておき、信じていると気持ち的に救われるよね。

ふとした瞬間、自分の現状が漫然と続いているように感じる時がある。体調が少し改善してもまだまだ結構シンドイ上、いつかまた必ず再増悪すると心のどこかで思ってしまう。直近数ヶ月でも、再び越えなければいけない壁がある。すると、再増悪の治療や体調&体力回復に勤しむ間に、パーッと1年や2年、3年や4年なんて吹き飛んでしまう。こうして、何年が闘病だの療養だのリハビリだのとかやってる間に、社会というレールから外れて自分がこの広大な地球のたった一室の中で、人生という長い長い道が藪に覆われ、荒れ果てて道なき道となった何処へでも進めるけれども、どこに進んでも必ず病状増悪とそれに伴う生き地獄が待ち構えているかのような感じの中、闇雲にできることを頑張ろうとしては途方に暮れているだろう。しかし、結局は奈落の底から必死に頑張って這い出ようとする度に、再び蹴落とされる。今度は土台を構築して足元を高く、地道に高い山を築いてみても、一瞬の出来事でその土台は爆弾で解体したかのように崩れ去る。発想を変えて、掘って出ようとしても、せっかくの穴に大量の水が流し込まれて、溺れながら奈落の底に引きずり戻される。たった一つの部屋、小さな土地の限られた建物、行動範囲なんて限られている。なのに、そんな小さな空間の中でも、自分の脳内の思考の渦に遭難して、人生を歩むためにどう踏み出せばいいのか分からない。完全に迷子になってしまっている気分だ。

私としては、治療もしているし、体調が少し回復する度に、少しずつでもリハビリしている。そして、何か自分にできることで、社会貢献できることを見つけて、必死に最善を尽くしているつもりだ。

よし!と気合を入れて頑張り始めた瞬間、私のことも、私の病気も知らない人と遭遇してしまう。そもそも医学にも患者にも興味もなければ、向上心もない人に限って、やれ「リハビリ」だ〜と捲し立てる。そして、それを切り出す時に目標を持った方がいいとか、頑張り方を忘れたとか言い出す。(きっと、こういう人は誰かに捲し立てられたり、脅されたりしないと「頑張ろう」と思えないのだろう。他の人まで同じと決めつけて、ちょっと傷つくことを言わないで欲しいなぁ。)

毎日毎日、私は必死に頑張っている。

自分にできることを一生懸命探し、一つの動作でも、他者から見たら些細な違いであっても、地道に何日も何ヶ月もかけて自主トレで一つずつできるようになっていく。

必死に頑張っている。

同時に、もう大分疲れてもきている。

少し前までは、生命の危機を感じた時には必死に助けを求めた。けれども、最近は「助けて」とお願いしたところで、助けなどなかなか得られないというのも身に染みてきている。

99%の医療従事者さん方は各々にできることを頑張ってやってくれている。むしろ、相当手厚いし優しい対応をしてくれている。地域系の人々も良い人の方が多いのだろうとは思う。ケアマネさん的な人ってのとの相性というかは難しい。嘔吐してる真っ最中でも事務的なことを話し続ける。身体的症状が辛い、休みたいというのは絶対に許されないから、ヘルパーさんはどんな状況でも休むのは厳禁と念を押される。なんか、どう話をしたら良いのかもよく分からない。一方で、別の部署の人は最高に優しくて丁寧だったりもする。凸凹な世界で、「あなたを助けたい」とは思う人が少ないシステムの中で、愛嬌もあって、愛想も良く渡り歩く必要がある。そして、「体調悪いから休ませて」は通用しない。病人が助けてもらいたい時、どうすれば良いのだろう?逆に、超良く観察してくれていて、色々把握して、上手く色々配慮してくれる方々もいる。(今関わってくれている医療系の方々は皆とっても良い方ばかりだ。同時に、私自身に相当弱っている自覚がある。なので、傷ついて「じゃぁ、終活というか、投げ場を求める」思考が少しでも巡るくらいならば、遠慮なくその人物との接触を避けるようになってきた。助けて欲しいからお願いしているのに、こっちの病歴も治療歴も知らずに適当なことを言うだけで、私が傷ついてせっかく多くの方々に繋いでもらっている生命を一瞬でも蔑ろに考えるくらいならば、助けにならない「ヘルプのしくじり」はむしろ害であろう。普通に、社会で敢えてリスクビヘービアー(タバコや違法薬物、危険スポーツなど)を避けるように言われている。社会にブラックタグ🏴付けられていたり、自分はいない方がいいと思うくらいなら、そんな関わり避ければ良い。逃げるが勝ちってのも一理ある。双方を理解するには時間がかかるけど、その途中で傷ついて時間が短くなるくらいならば、そして、一度や二度じゃなくて毎回何か傷つくことを言われるくらいならば、その人物との相性が悪いということで、逃げる方法もあろう。素敵で温かい人々は多い。私も自らが傷つくと分かっている関わりではなく、溢れるくらいに沢山ある素晴らしい出会いや人々との時間を大切にしたい。昔みたいに「良いこと」や「気持ち良いこと」、「ありがたいこと」にフォーカスしたい。疲れた。しんどい。助けて欲しい。あんまり色々考えて、色々戦略考えなくても、普通に「助け」が無条件であって欲しい…… 頼って、相手を好いてると見せれば、どんな人でもわりとこっちをいずれ助けたいと思ってくれる。しかし、私が警戒していると、良好な関係作りに邪魔になる。やっぱり、トラウマがない子供の頃はカワイイよね。周囲を無条件で信頼できるし、直ぐに懐く。難しいねぇ。)

ただ、結構溺れる寸前で、水を呑みながら海のど真ん中で、視界には入るけれども声が届く距離ではない救助船が見え隠れする中、必死に呼吸を繋ぐために手脚を上手く動かし続けて、その場に浮遊しているかのようだ。全身が鉛のように重く、手脚の感覚など既にない。それでも、生きるために頭だけでも浮上できるように必死にもがき続けている。もはや、泳ぐ体力も精神力も底をついている。-100%くらいの窮地だ。しかしながら、必死に生きようともがいている。

心の気力を維持する凧糸は歳月で劣化し、最後の一本の繊維以外は千切れて四方八方に独特な形で飛び出している。たった一言の些細な一言でも、その寸断寸前の最後の繊維は八つ裂きになりそうだ。

この、必死に頑張っている瞬間に、必ず中途半端に首を突っ込むけれども、興味も責任もない誰かがやってきて、ただ「リハビリしましょう」とは提案せずに「あなたは目標が必要」とか「頑張り方を忘れた」とか言い出す。その一言が、生きたいと願う気持ちすらも絶やしかねないほど大きな打撃として響き、傷つくことである…… こんなの無視すりゃあ良いなんて、頭では分かっているのにね。こういう人に限って、患者に寄り添う風な態度を見せる。本人には悪気がなく、ただ私が最も傷つくことを平気で口にする。(この人、抗がん剤治療後&髪が抜けやすい薬剤投薬中に「髪の毛少ない」と言った人でもある。悪気はないのは分かってる。けど、心は痛い。)

これ以上頑張れと言われても、そんなことできない。

無理をするなと言われても、無理をしないように細心の注意を払っている。

正直、助けて欲しい。

けれども、助けるふりをして胸元をナイフで抉られるくらいなら、羊の皮を被った狼と密に接する体力も精神力も、今の私にはない。

最近、とある症状で受診して検査した方がいいと思うことがある。頭では、エンドキサンもメルファランも使っており、現在も二次発がんリスクが高い薬を内服している。家族も1親等ほぼ全員がん、2親等ならば10人くらいがほぼ全員がん。加えて、皆わりと若年性という凄い癌家系歴を鑑みても、客観的に見たら全世界の統計よりももっと自分にテイラーした確率とリスクを考えた方がいいだろう。加えて、持病にも発癌しやすいものがあることを考慮しても、絶対に受診や検査が必須だと思う。「若い人は進行が速い」という一言でハッとした。正直、「これ、要精査っぽいよねぇ。けど、まぁ、大丈夫でしょ?」と思っていた。無痛で出血だけあるってのは、正直「困る」症状ではない。知識としては「ヤバイやつ❗️❗️」と思っても、心のどこかでは「そうは言っても、大丈夫でしょう」と思っていた。一方で、意識せずとも、もしも開放されるのなら、と思う自分もいないと言い切れるだろうか? 特に、新年ら辺に届いたメールで結構PTSDを刺激された。どこか現実逃避したい気持ちと休みたい気持ちも入り混じっている。そして、「開放」の前がいかにミゼラブルで、実はその過程が結構長くて苦しいから、早期発見早期治療以外の道が如何にシビアかも知っている。「アレだけは嫌だなぁ」と思うものの一つだ。そして、早期発見できるのにその一歩を踏み出さなかった羞恥心とも隣り合わせで、結局ダブルでミゼラブル&結局苦しむだけの薔薇の道だとも思う。同時に、統計的には圧倒的に良性の理由が多いから、きっと慌てなくとも大丈夫とも思って、けどその統計ではない自分のリスクに見合った調整とレッドフラグは絶対に最悪の事態のルールアウト必須だとも頭では分かっている。わりと複雑。

治って欲しいけど、やりたいことをやりたいけど、回復し始めて喜んだ瞬間に再び奈落の底に落とされる無限ループじゃない、もっと明るくて楽な道を切望する。

別に、内服薬を飲むのなんて、なんともないことだけれども、「あ〜、飲む必要がなくなって、薬を飲まなくても大丈夫になってくれたら良いのになぁ」とたまに思う今日この頃。(実は、治療関係のことは「こなすだけ」と思っていた。とある人物に「もうウンザリってなることない?」と聞かれて、今までなかったその発想が頭になんか刺さった。(寄り添う時に、他の患者さんが愚痴ることが多いという理由だけで、「大変ですよね」とか「嫌ですよね」とか「ウンザリですよね」とか「痛いですよね」という言葉を使うのが良いとは限らない気がする。普通に、「頑張ってますね」とか「凄い」とか「さすが」とか「強い」とか「何かあったら聞きますよ」とか「相談してくださいね」とかのマイナス要素がなくて、患者本人が「自分凄い」とちょっと胸を張ったり、自分に酔ったり、現実逃避でもなんか気が紛れる表現を私は好む。まぁ、初め闘病なるものを経験した時、いつもたわいない話や面白い話をしてくれて、めっちゃ優しくて、私が呼吸できるようになっても、声が上手く出せるようになっても、座れるようになっても、まだ座れずともリクライニング車椅子に乗せてもらえるだけでも、まだ呼吸器に乗ってる時に肺炎で痰が多くてまだ大変な時に痰の吸引の時に咳が出るようになっただけでも、なんでも褒めてくれた。「凄い」って言ってもらえるだけで、凄く嬉しくなった。自分の改善に意識を向けてくれたから、改善だけを信じて頑張れた。

辛いよ。

疲れた。

辛い時に辛いって言っても許されたいなぁ。
まぁ、そんなこと言っても、自分を自分で追い込むだけだから。
大丈夫。
耐えられて、次の瞬間急変して生命を落とすリスクが高くないことは全て「大丈夫」なんだよね。
結局は大丈夫にはなるんだからさ。
というか、どんな手段を使ったとしても、大丈夫に持っていくしかない。
だってさ、そうじゃなかったら、それで「the End」なんて、無理じゃん。
どうにかするしかないよね。
できないとか、オプションにないし。

まぁ、これはST合剤飲まなければいけないのに、忘れた時とか、なんだか怠くて動きたくない時にふと思って、あとは気にせず通常運行モードに入るんだけどね。

よし!

行こう!

どうにかなる。

今を大切に生きよう!

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KG
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