【エッセイ】記憶の焼き直しを何度でも
帰阪中、連日いろんな人に会う。
本当に出不精で、叶うことならずっと自宅などの安全圏にいたい人間だけれど、欲張りなのでここぞとばかりに予定を詰め込む。
迂闊に出歩くと、あっという間に体調不良になるくらい人混みが苦手なくせに、私は、連日深呼吸をして扉を開け目的地に向かう。
扉の先には、いつだって会いたいと思える人たちがいる。
その会いたい人たちの中には、友人だけでなく、今や当たり前のようにかつての教え子たちが、いる。
いくつになっても彼らは私の心を、そして年々緩慢になる体を動かすきっかけをくれる。
高校を卒業して、そろそろ十年になるような子達でも、一声かけてタイミングさえ合えば、何人か集まり二つ返事で会う時間が組まれる。
本当に本当に、ありがたい限りである。
ゆっくり美味しい定食を食べながら、あたたかいコーヒーを飲みながら、テラス席でロコモコを食べながら、それぞれの人生に耳を傾ける。
いくつのなっても、話すときのくせは、あの頃と変わらないね。
身振り手振りがどうしてもついたり、話の途中でも目の前を行く虫に気を取られて「で、何やっけ?」と笑ったり。
肯定をしてほしいのだろうなとか、ただ聞いて欲しいのだろうなとか、その辺もそっと探りながら、言葉のやり取りをする。
そりゃ過ぎた時間が長ければ長いほど、「変わること」も相応にあるけれど、その端々に「変わらないこと」を見つけて嬉しくもなる。
何だかんだ、一番盛り上がるのは「そういえばあのとき、〜〜だったよね」というような思い出話。
いつでもすぐに共有できる思い出があるという事実を、しみじみ噛み締めながら何度も何度も記憶を紐解く。
そして彼らを見る私は、いつだって彼らの向こうに「十年前の自分」を見る。
あのときの自分なら、どうしたか。あの頃の自分は何をしていたか──。
語れば語るほど、忘れかけていた記憶を焼き直せる。その度、より鮮やかな記憶として、また思い出置き場に置かれる。
こうして「教壇にいた頃の私」が、また色濃く記憶し直されて、私はいつまでも優しい思い出に足を取られたまま、教室に生き続けることになる。
会うことは叶わなくとも、「結婚したよ」と知らせてくれた人もいた。
送られてきた画像には、素敵な装いに身を包んだ二人と、何度も見てきた私の大好きな笑顔があって、そのあまりの幸せそうな表情に思わず涙が出た。
大切な人たちの幸せそうな様子って、なんでこんなに嬉しいのだろうね。こんなに元気をもらえるのだろうね。本当に不思議。
そんなお裾分けをくれる「大切な人たち」が、こんなにもたくさんいるのだと自覚する度に、自分の人生の豊かさに感激してしてしまう。
画面越しに、私にできうる限りのめいっぱいの愛を込めて、その末永い幸せを祈った。
次それぞれに会うのは、いつになるだろう。
またお互い元気に会えるといいな。
開けた窓から吹き込んでくる、少し肌寒さを感じる風にそんなことを思った。