【エッセイ】ちいさい人と私の話
赤子は何故、あんなに危うい存在なのだろう。
帰阪したタイミングで、身内の子どもや教え子の子どもたちに触れて、しみじみそんなことを思う。
これまでにもどこかで書いた気がするが、私は「子ども」という存在が苦手である。
存在が、危うすぎる。
その命の丸ごとを、他者に委ねてくる存在なんて、私は自分の手に負える気がしない。
赤子なんて特にだ。遠巻きに見ているくらいがちょうどいい。私は、無防備な命が怖いのだと思う。
そこから少し成長した、幼児期なんてさらに苦手だ。
まだまだ庇護の必要な危うい存在なのに、その命本体は自身の意思を持って勝手に動き出してしまう!
挙句、そこからさらに進むと小学校だ中学校だと、目の届ききらない世界を生きていく…。
自分の意識できる範疇を超えた、自分の弱点が増えているような感覚。まさに生きる弱点。
自分の急所に等しいものを、常時世の中に晒し続けるなんて、ヘタレな私にしたら恐怖でしかないのである。
そんなわけで、私は子ども…、一個人を重んじて言うなら「ちいさい人」が苦手なのである。
とはいえ、決して嫌いなわけではない。多分。
興味深い命だなと思いつつ、コミュニケーションを図ることはできる。そのやり取りが、果たして成立しているかどうかは定かではないのだが。
そんな子どもを苦手とする私が、高校教師になるのだから、世の中よくわからないものである。
何が違うのだろう…。
前置きが長くなったが、今日はそんな自分の中の思考掘り下げをしてみた。
昔から、面倒見は良いほうだった。
兄弟がいたことが、結構影響している気もする。
とりあえず困っている人は放って置けないし、世話を焼きたがるところがあった。
小学生の頃は、自分よりさらに小さな子たちを引き連れて学校ごっこのようなことをしたり、経緯は忘れたけれど、図書室で知らない下級生に読み聞かせをしたりしていた。
中学生の頃は、ふと気がつくと不登校の子のフォローをするポジションにいた。
高校生や大学生にまでなると、さすがに小中学生だったときのようなことはなかった。ただ、場をまとめたり、意見を募ったりする先導ポジションは好きだった気がする。
つまるところ、私はどこまでも「人間」が好きではあるらしい。
誰かと話す、関わる、意見を交換する…私はそういう他者とのコミュニケーションに、喜びを見出すことが多い。
それでも、面倒見云々は関係なく、やはり「ちいさい人」の危うさは私を及び腰にする。同じ「人間」なのは間違いないのにね。
何が違うのかをしみじみ考えたのだけれど……、まあそりゃ幼児と高校生は違うよなあ。そりゃそう。
高校生は、ちいさい人ほど危うくはなく、緊急時には自分で自分の命を守ることができる。
イレギュラーはあれど、「私はこう思うのだけれど、あなたはどう思う?」と問うたときに、相手が高校生ならおおむねそれなりの返答を得ることができる。
コミュニケーションを取ることが好きな私は、そこに楽しさを見出せたのだと思う。
能力値に差はあるけれど、高校生くらいになると、あの手この手で質問側が工夫をすればコミュニケーションが取れる。
もちろんそれでいうと、ちいさい人も工夫次第でコミュニケーションを取ることはできると思うのだけれど…。
質問側(つまり私)の技量が、それに適していないのだ!
何が言いたいって簡潔にいうと、私は「ちいさい人」を扱うことが向いていないと思っているのである。根も葉もない!
さらにいうと、多分私の中で高校生は「子ども」の括りにいない。
未熟なところはあるとしても、無意識に私の中で「一人の大人」として判断されている。
と、ここまで考えたら何だか腑に落ちた。
私は高校生を「不完全な、それでいて立派な大人」と認識している。
世には、適材適所という言葉があるものね。
長々と掘ってみたけれど、底にみつけたのは単純なこと。
大人と子どもの境目で、揺れながら「自分」を見つけていく過程を見守ることが、私は好きだったのだ。
そんなことを、ふと画像フォルダを見返しながらじっくり考えたのでございました。
久々に、オチのない話ですこと。
取り留めのない思考の掘り下げですので、ご容赦ください。
私もまだまだ「不完全な大人」、ということで…!ごにょごにょ…!