【エッセイ】心のアンテナ
すぐに心が、動く。
良く言うと感受性が豊か、悪く言うと影響を受けやすい。
私は、そんな「心が動きやすい人間」だ。
例えば、何か私に困難な依頼をすることがある場合、首筋に刃物を突きつけて脅すよりも、情に訴えるようなことを言った方がよほど効果的だと思う。
意志ある目に弱い。
拙くても要領を得なくても、自分で選んだ言葉で語る人の、想いに弱い。
そこに涙なんて加わろうものなら、効果はテキメンだ。
つい、向き合う気になってしまう。
ややこしいことになると分かっていても、目を合わせるか考えている間に、傾聴の姿勢に入ってしまう。
教壇に立っているとき、この特性は非常に都合が良かった。
日々、生徒の一挙手一投足をほぼ無意識に観察していた。
見るともなく、見ていた。
結果いろいろなところで、「異変」に気づくことができ、気づける限りのことならフォローに動くことができた。
100ある全てに気づくことはできなくても、気づける1を拾い続けることに意味があると信じていた。
万事気づいたことに反応することはせず、見守るという手を取ることもあった。
どういう手を打つにしたとて、何も気づかないよりは良かったと思っている。…至らぬところだらけで、自己満足ではあるけれども。
自分のクラスは殊更だ。
遅刻した生徒がどんな様子だったか、教室を見渡したときに感じた違和感、生徒に声をかけたときの反応の変化…。
今見返すと狂気的なくらい、気がついたことは日々全てメモに残していた。
記憶しきれないからだ。取りこぼしが怖かった。気づいたはずなのに、見落とすということをいつも恐れていた。
把握し得る「日常」との差異に、過敏でいるよう努めた。
当たり前だけど、それは全て「こちら視点」の話しなので、生徒側から見る「あちら視点」では全く完璧ではなかったと思う。
それは私の力不足ゆえ、申し訳なく思うと共に、完璧にはどう足掻いても辿り着けないのだと日々反省していた。
そんな日々を泣いたり笑ったりしながら、必死で泳ぎ続けていたように思う。
教科指導を除いた教師の仕事は、「気づくこと」が8割「見守ること」が2割だとすら思っている。
気づけた後どうするかは、当事者と一緒に考えていったら良い。
声なき声に気づくことが、重要な仕事の一つだと思っていた。
今でもそう思う。
何はともあれ、この少し過敏な「心のアンテナ」は、普通に生きる分には不便なことがある。
必要以上に、見える。聴こえる。感じる。
相手の良いところも悪いところも、すぐに見える。
聞かなくていいことも聞こえる。聞いてしまうと考えねばならなくなる。
聞いてない、聞こえていないフリが上手くなったのは、ある程度の歳を重ねて「生きること」に慣れてきてからだった。
視線を感じる、異変を感じる。気づいた以上は放置できない…。
終始そんな感じなもんだから、ドラマを観ても映画を観ても、本を読んでも必要以上に心が動く。
余裕がないときにそれらのことをすると、良くも悪くも、ものすごく影響を受ける。
ということを、外出からの帰り道にポツポツと綴っている。今日は、心がよく動いた1日だった。
疲れたあ…!と思うと同時に、いい刺激をもらう機会だったな、いい1日だったとも思う。
拾いすぎるのも困るけど、鈍すぎるのは自分じゃない。
まだまだ扱いきれない「心のアンテナ」をうまく活用して、得られた刺激を自分の創作活動にプラスに反映させたいなあ…!
そんな、取り止めのない話しを、程よい疲れで緩慢になった「心のアンテナ」を磨きつつ思うのであった。