【日記】RADWIMPSの「正解」を聴く夜
さて今日は何を書こうかなあと、noteを広げたタイミングで、YouTubeからの通知を拾う。
ふうんと思いながら、とりあえずクリックを押して聞く。
聞いていたつもりが、しっかり聴いていた。
学生と合唱と、RADWIMPSと。
私にとって「エモさ」の重ねがけのような動画が出た。
そもそも、こういう「いかにも」な映像に本当に弱い。
自分が高校生だったときのことも思い出すし、自分が高校生を見守る側に回ったときのことも思い出すし。
感情がもう本当に、迷子になる。
私は、この景色をよく知っている。
たくさん見てきたし、たくさん作品に落とし込んで書いてきたような、景色。
「野田洋次郎」という人に、こういう詞を書かせたらピカイチなんだよなあ。
学校で教えることには、大抵「正解」があって。
それ以上に、本当に学ぶべきことは、教科書には書いていなくて…。
わかるよ、そうなんだよ。
本当に知りたいことは、本当に得たい正解は、教わることの中にはこれっぽっちもないの。
ジタバタする日々。存在しない「正解」を探すために翻弄される時間。
たくさん間違えて喧嘩して叱られて、不満を抱いてはその抱いた不満を、必要以上に誰かにぶつけて傷つけてしまって…。
もう、こういう空気感の楽曲には、本当に心が揺さぶられて、たまらない気持ちになる。
時間は不可逆で、止まることはない。
これは生きとしいける、万人に共通する事実だ。
一瞬にして、「未来」は「現在」になり、そのまま「過去」へと形を変えていく。
懐古する「過去」は、ついこの間まで「現在」だったのに…と、何とも言えない気持ちになることがしばしばある。
私も決して、「正解」ばかりを選んで生きてこられたわけではない。
今なおたくさんの「不正解」を抱えているし、きっとこれからも選んでしまうことはあるのだろう。
だけれども、でもその「不正解」も時間を経ると「正解」に形を変えることがある。私はそれを知っている。
あの日見つけられないかった「正解」も、今から振り返ってみると、不安の中必死で選んだものが結果的に「正解」だったなんてこともあるわけだ。
今でも、ふとしたときに教え子が連絡をくれる。
迷うとき、先生ならどうする?
先生は、これについてどう考える?
私はただただ真剣に、それらの問いに「私」という一人の人間としての意見を言う。
「先生」なんてもはや名ばかりで、今やほんの十年、十五年程度の先を歩いているだけの同じ人間だ。
親兄弟ではない分、お互いに遠慮のない意見の交換ができる。それって結構「都合がいい」ことだと思うんだよなあ。
親ほど近くなく、友達ほど気を張る必要もない。
いい距離感の「大人」として、うまく私を活用してほしいと常日頃から思っている。
いろんな問いを投げかけられ、「私は、こう思うよ」と伝えるとき、懸命にそれを受け止め自分なりにまた答えを導き出そうとする姿に、私自身が励まされる。
腐ってはいけない。
諦めることはいつでもできる。
見限ることもときには必要で、何でも「綺麗なもの」ばかりを拾うことはできない──。
RADの音楽は、いつもそういう切実な「青さ」を私に思い出させる。
「正解」いい曲だ。プレイリストに入れておこうと思う。
ちなみに、実際に十八歳そこそこの人たちと歌ったバージョンの動画があった。良い。
これのONEOKROCKがやったバージョンもすき。
RADWIMPSよりも、「ゴリゴリ」しててより十八歳のパワーを感じる気がする。
ああ、良い。
音楽は、チカラだ。
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