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なんでもないこと。(30代を迎えるに寄せて)

そう、なんでもないことなんです。自分が10代の時気づけなかったことを、20代の終わりになって気づくことも、今気づけないことを10年後の自分が気づき、また学ぶことも。そして、齢91の祖母の死期がいずれはくることも。

・ふと。

普段このNoteっていう書き物を書く場所では出来たら明るい話がしたくてVtuberとか好きな音楽とか作曲とか流行り物の話をするのですが、なんだかそういうものとは違ったちょっとだけナイーヴな気分になったりもしました。ただ、久しぶりに漫画を読んだんですよね、ドラえもん。活字は好きなのですが、漫画がなじまなくて読まないできた自分にとって唯一読んだことのある漫画、そして永遠に読むであろう世界的タイトルですけど、その中の『45年後,,』というお話があるのをご存じでしょうか。45年先の未来から55歳ののび太がやってきて入れ替えロープで中身を入れ替えて、懐かしき少年時代を過ごし友人や家族と過ごして、晩ご飯に涙を流す。そんな些細の積み重なった物語です。でも、二度と手に入らない思い出や記憶の話でもあります。『おばあちゃんの思い出』『結婚前夜』『さようなら、ドラえもん』だとかエンタメ性に富んでいて泣けるタイトルはたくさんあるのでこの作品は派手さはなく地味なのですが、『タンポポ空を行く』のようなノスタルジックな気分にさせる部分があります。

20代も終わりの時期に差し掛かりつつあると、昔あれだけ大きかった父や母という存在の背中がどんどん小さくなっていきます。酒に強かった父が酔いやすくなったり、母が腰やひざを痛めたり。人は必ず生老病死からは逃れられませんから、順番に皆老いて弱っていきます。かくいう私も学生時代ならできた徹夜や甘ったるい食べ物は少し受け付けなくなってきて、自分も少しづつ老いている実感を感じます。こうして自分が弱くなり、周りも弱くなっていくと、色んな後顧があるものです。10代の頃こうしとけばよかったなあ、だとか20代頭の頃にこうしておけばよかったなあと。でも今思えば20なんて、成人だとか言われますけど、やっぱりまだまだ子供なんです。車を運転できるようになって、一丁前に煙草やお酒に手を出して、この世の右も左も知った気でいる、実際は何も知らない小さな子供です。30が近い自分だって、まだまだ半人前で、まるで前に進んではいないことを感じます。ただ、昔よりちょっとだけわかることも増えたなあって思うんです。

私は両親が私を成したときに近づきつつあって、働き盛りの世代ですから仕事だとかいろんな欲求だとか、そんなものはまだまだあるつもりです。それでも、見えてくる未来に恐怖を覚えることが増えました。私が生まれたとき60代だった祖母は91になり、いつ、何が起きたっておかしくはない年齢となりました。本人はよく、『ここまで生きたら大往生』とばかりに言って見せますが、死に化粧の姿を見る勇気は、正直私にはなかったりします。毎年夏になると子供の頃は祖母の家に1月預けられて田舎だったので小さな町のあちこちを祖母と一緒に歩きました。川だとか海だとか。今は随分狭くなってしまった空だとか、そんな些細が積み重なっていました。それももうおしまい。今の祖母は背は曲がらず幸いに認知的にも問題はないですが、もう外で歩くのは辛いといいます。もう一緒には外を歩けません。だから、記憶の中で一緒に歩くことしかできないんです。時間の経過は残酷ですよね。

次に思ったのが両親と飼い猫のことでしょうか。私は父が嫌いでした。昭和気質のワンマンで勢いと偏った考え方をして今ならパワハラやモラハラって言われる部類の人間だったから、私とは意見が食い違って何度も喧嘩をしました。母は常にそのどちらもに心を砕いていたのをよく覚えています。でもどれだけ喧嘩したって、次の日の晩ご飯は囲ってるんです。家族ってそういうものなんです。私は動物も嫌いでした。でも私が一人暮らしになって数年したあたりで飼い猫を実家で飼うことになって、いざ子猫だった当時の猫に触れると意外と可愛かったりして、5歳を迎えようとする今では立派な家族の一員です。気づけばたくさんの家族に囲まれていました。早いうちに男は家から出た方が良いとの母の意見で大学進学と同時に大都市に移り住んだのですが、元々一人上手だっただけに孤独には耐えられていたのです。ですが、今はいずれ待ち受ける二人と一匹とのお別れを考えると怖くも、寂しくもあります。

私は確かに学校でのいじめと父の強い圧のために板挟みになり、鬱病を発して10年間を棒に振ったのですが、それでも、いわゆるネグレクトや虐待はされず、多くの人に囲まれ幸せに育ちました。今思うのはそんな怒気もなくなった父をちゃんと看取ってやれるかという思いと、気丈な母のことも見送ってやれるかということです。そして、何より自分がそれまで何もなく生きているかということ。人生は突然の連続です。事故、病、戦争。何だって今の時勢ならあり得ることです。平和な国といわれた島国日本も一枚岩でどうにかやりくりするにはこの2020年代は難しくなりましたし、流行り病は相変わらず蔓延していて、突風が吹いて偶然落ちてきたものが頭に当たってしまうかもしれない。老いる順番は決まっていても死ぬ順番は決まっていないんです。

よく母は家族とは1つのチームだといいます。相互的に誰かがダメな時は他の仲間が助ける。自分がダメな時は仲間に助けてもらう。そのサイクルの繰り返しであると。ですがそのメンバーは減っていくものです。私は結婚に対しても恋愛に対しても別段興味がなく生きてきたので、母の言う、チームを増やせという意味合いがよく分かってなかったのですが、例えば父や母がいずれ順当になくなったとき、膝を崩すであろう自分はそのとき一人です。そんな時、もしかしたら手を取ってくれるのが、パートナーとか友人とかそういう存在なのだろうか、とも思ったりします。偏屈で理屈っぽい人間なので結婚はまだまだ遠そうですが(笑)

ともあれ、私は昔からなんだか自分の夢とは別に自分の義務として、少なくとも『自分に関わってくれた大切な人を見送ってからじゃないと死ねない』と考えています。鬱病の最悪期は余裕なく、何度も自殺未遂もしました。逆縁をしようとするなんて何とも親不孝なものでした。でも今もまだ解決していない鬱を隠れ蓑にしたくはないのです。こんな厄介な敵に打ち克ってでも、見送って、区切りをつける。それでやっと初めて人として子供を脱して、半人前を磨いて、一人前なのかな、とも思います。

親孝行ってよく言います。しなきゃ、と義務になる人もいます。でもたぶん壮大なことはしないでいいんです。自分に投資した後、余ったお金で今は世界旅行はしにくいですが、せめて国内旅行や温泉旅館に連れて行ってやるとか、誕生日や父母の日に酒やカーネーションを送るだけでもいいと思いますし、もっと言えば、時々帰れる日に日帰りで顔だけ見せる、それもできなければ電話の一つをかける、だけでいいんです。親は子が自由に元気に生きているだけで孝行と、無償の愛を伝えてくれます。同じように、子もどこかで無償で親を思う生き物で、その鎖のつながりが家族の形だと思います。

境遇様々、親を早くに亡くした方や、親と不仲な人も、家庭不全の人も、私の知り合いや昔バンドを組んでいた友人にもいました。だから私のいう事が全ての人に当てはまるとはとても言えません。しかし、いなくなった人に帰す恩はなくて、喪失を恐れるからこそ、生きているうちに恩を返したいものです。人は死ぬと天国でも地獄でもない真っ暗な『無』にその脳機能のシグナルが消えて、身体が荼毘に伏すとともに消え去ります。記憶もです。そんな時憂いたってどうにもならないのです。ですから、生きている一瞬のうちに、声の一つでもかけてやるのが孝行の形の1つかなと思います。

そして、願わくば生きていたころの記憶がその人の形になって、自分の記憶のごちゃまぜな街並みの中を、景色を、共に歩けるようになれたらいいな、と、淡く風化する記憶の中でも願望を抱いてしまいます。

今日を生きる若い人を見ると、若さがうらやましくなりますが、いよいよ人生の少しだけ先達となりつつある自分からして、記憶の数珠繋ぎのなかに自分も繋がっていく中で、こういった書き物の媒体からでも、何か伝わるものがあればいいなあ、そんな思いで今日は書きしたためました。

私の20代前半までは憎悪と自己否定の繰り返しでした。ですが、その時の痛みを知っているから今があるとも思います。今思えば、あの時の苦しみや痛みにも少しだけ笑ってやれる自分が居て良かったなと思います。

長々と読んでいただき感謝します。ではでは!

そういえば、ドラえもんの大長編『のび太の宇宙小戦争』のリメイク版が公開されているそうですね。序盤はジオラマから始まり、大きな独裁者とレジスタンスの闘いだとか、海底鬼岩城の相互確証破壊(ポセイドン)のように大人なテーマなのですが好きな大長編の一つです。少年期は名曲ですが、確かレジスタンスの地下アジトでモブキャラがギター片手に歌い始めるんですよね、昔のバージョンだと。暇が出来たら見てみたいと思います。




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