4‐2.最後の戦い

 この日は土曜日の昼間だったので、父は酒を呑んでいなかった。
 いつもは酒を呑んで暴れていたので、私はお酒が大嫌いだったが、呑むとキレやすいというだけで、それが起爆剤だったわけではないようだ。
 今までは酒乱だと思っていたのに、ただ、ただ、この人がクズなだけ。それを確認してしまって、残念だった。
 酔わなくても家のものを壊して回り、自分の妻を殴ることができるなんて、真剣に狂っているじゃないか。
 そんな人が自分の父親だという絶望、そんな人との間にできた子を産んだ母親への憎悪、そんな人の遺伝子をもらって生まれてきた自分への嫌悪感。
小学三年生から十四年間、ずーっと解決しないわが家のDVと、面前DV問題。
 これを解決するのは誰だろう?
 警察でも弁護士でも、神様でも悪魔でも、悪徳占い師でも、誰でもいいから助けてほしかった。
 荒れ狂うわが家とDVを受ける母を見ながら、私はずっと声を殺して泣いていた。
 いつもは無表情で無言を貫き通してきたが、もう心が限界だった。
 例えば今、警察に電話をしたら警察は暴行の現行犯で父を捕まえてくれるのだろうか?
 民事不介入で夫婦喧嘩の場合はダメなのだろうか?
 もし捕まっても、被害者である母が起訴しなければ、前科もつかずに解放されて「どうして警察なんか呼んだんだ!」と私がボコボコにされるのだろうか?
 もうこのまま死のう。
 二人がDVに夢中になっている隙に、台所のドアからベランダに出て、母がボコボコにされているのを眺めがら飛び降りてしまおう。
 さようなら。
 もう耐えられないの。
 私が死んだら後悔してくれるのかな?
 自死以外だったら、あとはもう父を殺すしかない。
 父を殺したら、安心して暮らしていけるのかな?
 母も弟も、明るさを取り戻して、優しく、楽しく、皆で支え合って暮らしていけるのかな?
 犯罪者の経歴を持った私の稼ぎで三人を支えていけるかな?
 この瞬間に様々な可能性を考えた。
 この家にはもうまともに判断できる人間はいない、と思った。表面はべちゃべちゃに泣きじゃくっていたが、頭の中はフル回転で最善策を探していた。
 そして、そっとリビングを出ると、父の姉(道子おばさん・仮名)に電話をした。
「もしもし、おばさん?お父さんが家でキレて、お母さんに暴力を振るっているの。家もめちゃくちゃで、実は十年以上、うちはずっとこうなの。申し訳ありませんが、仲裁に来てくれませんか?」
 と冷静に伝えた。
 マンションのオートロックを開けるためにチャイムが鳴ると親にバレる。それはまずいと思ったので、鍵を持ってそっと部屋を出た。
エレベーターで下に降りて、マンションの入り口で泣きながらタクシーが来るのを待った。
 同じ区に住んでいるのに意外と時間がかかって、心が擦り切れそうになっていた時、タクシーが止まった。中から降りてきたのは、道子おばさんだけではなく、父の母親である敏江(仮名)の姿もあった。
 私は母方の祖母・和香子に懐いていたので、敏江は苦手だった。
 敏江は跡取りである弟を可愛がっていたが、私には素っ気ない対応で、そもそも愛想がなく、温かいおばあちゃんではなかった。
 また、父も敏江とは馬が合わず、いつも衝突ばかりしていた。
 あとで書くが、敏江の存在もまた、わが家を崩壊された原因の一つとなっている。
 二人を部屋に案内する途中、エレベーターの中で道子おばさんが泣きながら私を抱きしめてくれた。
「しずくちゃん、ずっと怖かったね。大変だったね。ごめんね、おばさんずっと知らなくて」
 と声を震わせて一生懸命伝えてくれた。私も涙が止まらなくて、おばさんの温かさが心地よくて、抱きしめ返して泣いた。
 そうだ、ずっとこれを望んでいた。こんな風に誰かに抱きしめて、声をかけてもらいたかった。
 敏江はその光景を見て「あのバカたれが」と小さくつぶやいた。
 部屋のドアを開けた瞬間に、スムーズにリビングへ誘導すると、突然現れた二人を見て、父は驚いた。
「なんだ?何しにきたんだ?」
 母の胸ぐらを掴んでいた手をすぐに放して、気まずそうにと口ごもった。
 そこから全員椅子に座って話が始まった。
 この日、弟は東京から帰省していたが、たまたま外泊していたので、父、母、私、道子おばさんと、敏江の五人だ。
 既に母と、道子おばさんと、私は泣きぬれていた。父と敏江は、ふてくされているような顔で、泣いている私達を無言で見下していた。
 最初に口を開いたのは敏江だ。
「どうせあんたが悪いのでしょ。謝りなさい」
「うるせぇ!」
 はっきりと言う敏江に対し、父の声は小さかった。
 敏江は母をにらみつけた。
「あんたも悪いよ。こんな風になる前に手を打てなかったのかね。この人が怒ったら手が付けられないタイプだと知っていて結婚したんだろう。わざわざ呼び出されていい迷惑だね」
 私達家族は全員、心の中で「誰もお前のことは呼んでないわ」と思った。温厚で泣き虫な道子おばさんが、上手に父をなだめてくれればそれで良かった。
 父は道子おばさんを姉として慕い、親族の中で一番信頼していたので、道子おばさんの前で怒鳴り散らすような醜態は晒さないだろうと思ったのだ。
 しかし敏江の登場で話がややこしくなった。母が意見をすると、敏江は全て否定をした。
 わが子可愛さなのか、よく分からないが、母の意見は「くだらない」「そんなの我慢しなさい」「あんたの要領が悪いからだね」と最後まで聞き入れられず、かと言って父の意見も「あんたは黙ってなさい!」と聞いてもらえない。
 このまま、この人が司会で進む議論では何も解決しないと思った。
 しかし、私が状況説明などで口を開くと「あんたは子どもなんだから黙りなさい!」と一蹴されてしまった。
「私ももう社会人だし、この問題の当事者です。話し合いをするならきちんと全員の言い分を聞いてください」
「目上の人間に対して失礼だね!黙れと言われて黙れないのが、子どもの証だよ!」
 直後に父に「お前は黙ってろ!」と思い切り顔をぶん殴られた。
 リビングの椅子に座っていた私は一メートル以上あるドアまで吹き飛んで、背中を強打して、口の中が切れて、沢山血が出た。
 口元を手で拭うと、まるで人を殺したみたいに、両手が血だらけになった。
 それを見ても、敏江も、父も母も、何も言わなかった。全員目が死んでいる。
 道子おばさんだけが「大丈夫かい!」と駆け寄ってきて、ハンカチで口や手を拭いてくれた。拭いきれない血を拭きながら「あ、父の家族は、私の家族よりもヤバい」と思った。
 それからの話し合いは、ただ全員が敏江に怒られるだけだった。
 私は「二人に別れてほしい」と主張したが、敏江に「離婚なんて恥ずかしい」と言われ、「簡単に離婚なんてできない」と古い価値観でスルーされ続けた。
 結局父が逆切れをして敏江と道子おばさんを無理やり帰した。

 二人がいなくなると、私は父にボコボコにされた。
「余計なことしやがって。俺が一番嫌がることをしやがって。こうしてやる!こうしてやる!お前が全部悪いんだぞ!離婚してほしいだと?誰に育ててもらったんだ!」
 息もできないくらい、殴る蹴るの暴力を受けた。
 もはや面前DVではない。
 ただのDVだ。
 心の中で「やっぱりね」と思った。
 復讐されると思っていた。
 そして、もうこれで死にたいと思った。
 父の暴力で私が死ねば、ニュースになって全国に恥をさらすことになり、私の苦しみを国民が知るだろう。
 母も、今まで全く対処をせず暮らしてきたことを嘆いて余生を送ることだろう。
 敏江も「あの時自分がなんとかしていれば、死なずに済んだかもしれなかったのに」と後悔してくれるかもしれない。
 いや、おそらく、しない。こいつらは全員「しずくが悪い」と言って生きていくのだなぁ、と思った。
でも、生き残ってしまった。最悪だ。
 身体も心も痛くて、辛くて、痛くて、つらい。痛さと辛さ以外の、感覚は何もない。


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