5-3.人生の仕事を決める
実は在職中に、私は自分で絵を描いてポストカードなどを作り、素人が非営利で雑貨販売をしてよいイベントに参加していた。
創作活動をしている時間は無心になれて、嫌なことを忘れることができた。集中力がないので、短い時間で絵を描いて、飽きたら工作をして、また飽きたら絵を描いてと繰り返す。その過程や完成品を写真にして、SNSに載せたり、イベントで販売をしていた。
これが、母の兄の会社にいた間にみつけた「新しい趣味」だ。
利益はほとんどなく、むしろマイナス収支なので作るのが楽しいだけ。自己肯定感が低いので、作品がぽつりと売れると、自分が認められたみたいで嬉しかった。親戚の会社にいた時は、終業時間が早く、毎日が暇だったので、沢山の時間を創作に充てることができた。
そのうち、イベントを主催する側にもなり、精力的に活動して、友達も沢山できた。
寿退社をすべく動き出してから「結婚をしたら創作物の販売イベントに出るのはやめよう」と考えるようになった。夫の年収的に専業主婦は難しかったので、簡単なパートをして生きていこうと思っていた。パートはそんなに儲からない。わずかなお金しか稼がないのであれば、積極的に無駄遣いするのは気が引けた。
今まで物欲がなくて貯まりにたまった貯金を使って、何かすごいグッズを作ってから、創作を卒業しようと思った。何をデザインしたかは内緒だが、その写真をSNSにあげた瞬間、大拡散されたのだ。
今までフォロワーも10人くらいだったのに一気に二千人ほど増えた。初回は十個くらい売れればよいと考えていた私だったが、お問い合わせの多さに驚いて、約四百個の在庫を全部持って行くと、なんと行列ができて、一時間で完売してしまった。
私の卒業記念作品は、この日のイベントの前にもう一種類デザインして注文済みだった。
次のイベントは、イベント開始前に、会場の外にまで行列ができた。主催会社から「場所を移動してください」と言われて、島中から壁側の広い位置に移動し、十五メートルの行列ができた。友達と二人で必死にレジ対応して、わずか四十分で全て完売したのだ。
こうなると卒業どころではない!SNSのフォロワーもどんどん増えて、ファンの方に「次回も楽しみにしています」と言われまくった。その二か月後のイベントでも新作を出し、デビュー作の再販も大量に出したが、瞬く間に完売してしまう。
この頃にはファンの方がお菓子や花束、お勧めの生活用品や金券などを差し入れでプレゼントしてくれるようになった。行きは大きなダンボールで作品を運び入れ、帰りはその段ボールに大量の差し入れを入れて運び出すという状態だった。
自分では自覚はなかったが「人気作家になったね」と周りに言っていただき、大型イベントにゲストで呼ばれるようになった。
SNSがバズった五か月後、ついに暴力上司のいる会社から逃げ出すことに成功した私は、可能ならデザインを仕事にしていきたいと考えた。しかし、デザインの専門学校を出たわけでもなく、デザイナーの経験もないため、いきなり就職先を探すのは難しい。
残る手は、フリーのデザイナーになることだが、自分で起業するなんて博打を打つようなことを両親が許すはずはなかった。
これまでの生活で、私は何でも母に「これをやっていい?」「おやつ食べていい?」「これを買おうと思うんだけどどう?」「明日遊びに行っていい?」と確認を取らないと行動できない人間になっていた。その結果、母がダメだと言うことは全て諦めてきたので、今回は母に黙って、今まで一緒に活動してきた友人に事業登録をしてもらった。私はその従業員として手伝いをするという形にした。
「在職中に友達と起業したよ。私は代表じゃない。結婚後はデザイナーで食べているんだ。収入も安定してる」
ある日、完全に事後報告で、早口に言った。
「そう。うまくいくといいね」
母は気のない返事をした。父も怒らなかった。
最初はコンペに自分でデザインを応募する形で仕事を頂いていた。パートで稼げるくらいの収入はキープできていた。
趣味で作品を出すことも続けていた。
SNSで私の作品を見た企業からも仕事が舞い込み、あれよあれよと知名度が上がった。そこで「このジャンルで一番実績のある作家になろう!」と思うようになった。
色んな依頼がくるが、できるだけ「その作品」のデザインだけを受けるようにしていて、今はその作品の「専門デザイナー」を名乗っている。そう名乗ることで仕事が舞い込みやすくなった。何事も、特化していることはいいことだ。
静かな家でコツコツとデザインをする仕事が、自分には合っている。誰にも怒鳴られず、体調に合わせて適度に休憩をして、仕事で好きなだけデザインをし、趣味でも作品を作った。見積書や請求書を作るなどの事務仕事も得意なようだ。天職に出会えたと思う。