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20240919 客とスタッフにもなれない関係

ご飯時の微妙な時間に仕事が入ったこともあって、パートナーの提案で夜はケンタッキーを某デリバリーアプリを使って注文した。
決済前に、「置き配」にするか否かを選択できるのだが、地べたに物を置くのがあまり好きではないので、毎回、置き配はしないように選択している。
それだったのに。
ピンポーンとインターホンが鳴ってすぐにモニターを見ると、誰もいない。ドアを開けて、食べ物を届けてくれたと知るのだが、置き配ビギナーで選択も敢えてしない私は、お隣さんからの苦情? それともピンポンダッシュ? と恐る恐る玄関へ行った。

足元に置かれているビニール袋に、ちくりと胸が痛む。

これは置き配を選択してないのに置き配された怒りではなく、置き配を選択しているとしても、なんの言葉もなく置かれていく寂しさだとすぐに自分の胸の痛さを処理した。いつもこの感情は? と悩む私にしてはこの早さの処理は珍しい。それほどにこの些細な出来事は衝撃だった。

郵便局員さんも配送業者さんも、必ず「〇〇でーす! お荷物になります!」と声を掛けてくれて、余裕のあるときは直接受け取ってお礼を言うし、手が離せないときは「玄関前にお願いします。ありがとうございます」と言葉を交わすようにしている。

たった少しの言葉のキャッチボール。それさえもできなかったことがとても寂しかった。
デリバリー配達員さんにとっては、たった数百円の送料のために数十分掛けて届けて、淡々と終わらせたいのかもしれない。知らない人の日常を垣間見たくもないのかもしれない。
というか、そもそも置き配に言葉の交わしを求めることが置き配ビギナーそのものなのか……?
いずれにせよ、私は「なんて寂しいシステムなんだろう」と思った。

置き配はお互いにとって、とても便利だ。少し身だしなみを整えたり、声色を変えて返事をしたり、そんな小さな心配りをしなくてもいいし、自分のタイミングを優先できる。
でも、その便利さと引き換えに、温かさを失ってしまったような。客とスタッフにさえなれない、誰でもない同士のようなこの冷え切った関係性は、果たして豊かなのだろうか。
少なくとも、私が感じていたい豊かさとは違うの明白だ。

どんどん便利になって、効率化重視になっていく世の中。いいことだとも思う。でも、機械的になりすぎて温度感がなくなる寂しさも確かに感じている。
ちょっとの不便さや非効率さに、温かさが隠れていることをこれからまだまだ生きていく人生で忘れたくはないな。

とにかく、届けてくれた配達員さん、お仕事お疲れ様です。

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屈橋毬花 | 【紙に月】
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