佐藤優のベストセラーで読む日本の近現代史ーースターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論について』
今世紀中に『不老不死』が実現できるかもしれない
チャールズ・ダーウィン(1809〜82)が『種の起源』を発表し、進化論を提唱したことによって、神が人間を含む全ての生物を創ったという当時の世界観が崩された。現在、ゲノム(全遺伝情報)編集技術によって、人間が遺伝子を自由に書き換えて、病気や老化を克服する研究が進められている。
〈ゲノム編集はもともと、ある種の細菌が外敵のウイルスを撃退しようと遺伝子の本体であるDNAを切り刻むしくみに学ぶ。察しのよい研究者がこのしくみを、遺伝子を狙った場所で切断し、書き換える技術に使えるとひらめいた。2012年に「クリスパー・キャス9」というゲノム編集の簡単な方法が登場すると、多くの研究者は「病気の原因となる遺伝子を働かなくしたり正しい遺伝子を補ったりして、治療が難しかった病気を克服できる」と色めき立った。/遺伝子の働きは複雑で、限られた遺伝子の書き換えだけであらゆる病気を治せるわけではない。楽観すぎるとの声も聞こえるが、それでも人類史上、遺伝子をこれだけ高精度に操るのは初めての経験だ。いずれ人類は自分の手で自分たちの体をつくりかえ、運命すら変えられるようになる〉(「日本経済新聞」2019年10月16日朝刊)
日本でもこの分野の研究が鋭意、進められている。
〈「ゲノム編集が起こると赤く光るんです」。パソコンに映し出された臓器の切片が所々輝いていた。東京大学の内田智士特任助教が所属する研究室では、脳や肝臓、肺など体内の狙った臓器でゲノム編集を働かせる研究が進む。「変形性関節症やアルツハイマー病、B型肝炎などへの効果を見込む」と内田特任助教はいう。/人類にはいつまでも健康で長生きしたいという根源的な欲求がある。古代中国・秦の始皇帝が不老不死の薬を求め、使者を遠方へ派遣した逸話は有名だ。(略)/人類の進化などを研究する国立遺伝学研究所の斎藤成也教授は「病気や老化の原因になるゲノムの変化をゲノム編集で狙い撃ちにすれば、今世紀中に『不老不死』が実現できるかもしれない」と話す〉(前掲)
「生命を操作する」という思想
もっともゲノム編集技術による治療を受けることが不老不死の前提だ。ゲノム編集されない人は、従来同様に死ぬ。現実的に考えれば、この治療を受けることができる人は、当面、富裕層に限られるであろう。経済力によって不老不死が実現する人と死ぬ人に人間が分割されることになる。もっとも経済的には、ゲノム編集による治療を受けることができるが、自らの宗教的信仰もしくは死生観によって、あえてこの治療を受けずに死を選択する人も出てくると思う。
評者は基礎教育がキリスト教神学なので、不死を追求すること自体に抵抗を覚える。また、人間が人間の生命を完全に操作できるようになるという思想に対しても抵抗感がある。欧米などキリスト教の影響が強い世界では、評者のような認識を抱く人が少なからずいる。
かつて、将来、人間が生命を含む自然のすべてを支配できるという考えが、強い影響をもったことがある。この思想を普及させたのがソ連の独裁者イオシフ・スターリン(1878〜1953)だ。ソ連は反宗教政策をとり、聖書の刊行は厳しく制限された。スターリンは聖書に代わる書物として1938年に『ソ同盟共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』を刊行した。この本は共産主義者の必読文献とされ、ロシア語から世界各国語に翻訳され、大ベストセラーになった。そこに収録された「弁証法的唯物論と史的唯物論について」という論文はスターリン自身が執筆したものだ(『弁証法的唯物論と史的唯物論/無政府主義か社会主義か?』大月書店、1968年に収録)。冒頭で、スターリンはこんな指摘をする。
〈弁証法的唯物論は、マルクス=レーニン主義党の世界観である。この世界観は弁証法的唯物論とよばれる。なぜなら、それは、自然現象を弁証法的にとりあつかい、その自然現象の研究方法、これらの現象の認識方法が弁証法的であり、この世界観による自然現象の解釈、自然現象の理解、その理論が唯物論的であるからである。/史的唯物論は、弁証法的唯物論の諸命題を社会生活の研究におし拡げたものであり、弁証法的唯物論の諸命題を社会生活の諸現象に、社会の研究に、社会史の研究に適用したものである〉
重要なのは、弁証法的唯物論を共産党の世界観としたことだ。ソ連システムにおいて共産党と国家は一体だ。従って、国家が正しい世界観を持つということになる。ゲノム編集についても、ガイドラインは国家が定めることになる。そのことによって、人間の生命が国家によって統制される危険が生じる。
スターリンは、単純な進歩史観の持ち主だ。
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