「黒川東京高検検事長“定年延長”の真実」安倍政権の思惑vs.検事総長の信念
何としてでも“政権の守護神”の異名をとる東京高検検事長の黒川弘務を「検事総長」の座に就かせたい首相と官房長官。人事案をめぐり、検察と官邸の熾烈な駆け引きは続いた。そして飛び出した“黒川定年延長”というウルトラC。圧力をかける官邸、検察としての信念を抱いてそれに抗う検事総長。果たして、この戦いはどうなるのか。/文・森功(ノンフィクション作家)
迷走する政府答弁
宮内庁のホームページを開くと、「認証官任命式」という表示がある。こう説明している。
〈任免につき天皇の認証を必要とする国務大臣その他の官吏(認証官といいます)の任命式です。任官者は、内閣総理大臣から辞令書を受け、その際、天皇陛下からお言葉がある〉
霞が関の高級官僚である事務次官といえど、認証官ではない。検察庁トップの最高検察庁の検事総長と次長検事、そして8つの高等検察庁の各検事長がそれにあたる。文字通り天皇の認証を必要とされ、特別に位置づけられているポストだ。
宮内庁が検事総長や検事長の認証官任命式のため、あらかじめ天皇のスケジュールを確保しておかなければならない。天皇拝謁の前に内閣の閣議決定があり、検察庁はそれまで最短でも3週間前に本人へ内示し、周囲が任官準備を始める。それが通例だった。
だが、今度は様子が違った。東京高検検事長の黒川弘務は2月8日の63歳の誕生日をもって検察官の定年を迎える。新たな検事長の交代に備え、年の初めにはその内示があるはずだった。松の内が明ける1月7日の初閣議前になっても、その内示がない。動きがまったくなかったのである。
そうして1月31日を迎えた。検察関係者たちは、当日の閣議決定に仰天する。それが黒川の半年間の勤務延長だった。東京高検検事長は検事総長の待機ポストと位置付けられている。退官するはずだった黒川は定年延長により、8月7日まで東京高検検事長として勤務する。この間の7月、検事総長の稲田伸夫は任期の2年を迎え、慣例通りなら黒川検事総長が誕生する。それが「政権の守護神」の異名をとる黒川のために首相官邸が描いた人事のシナリオではないか――。
すぐさま野党が、検察庁法で守られてきた司法の独立をないがしろにした政治介入だ、と国会で追及の火の手を上げた。対する首相の安倍晋三は、従来の法解釈を変更した、と言い逃れる。法務大臣の森雅子や政府の役人たちは首相を庇おうと答弁が二転三転していく。まるでモリカケ国会の再来を見ているようだ。
だが、政府答弁の迷走も無理はない。検事長の定年延長という前代未聞の政治介入は、あまりに度が過ぎている。その裏には、検事総長レースの曰く言いがたい因縁がある。安倍政権と検察の熾烈な攻防が繰り返されてきた末、ありえない事態を招いているのである。
不祥事が絶えない安倍政権
「政権を守ってくれた」恩義
法務検察組織はその名称通り、行政機関の法務省と捜査機関の検察庁で構成される。検事が準司法官と称されるのはそのためで、検察幹部の大多数を占める。準司法官である以上、検事は政治権力の不正をただす務めを国民に託され、とりわけ東京や大阪の地検特捜部は国会議員や高級官僚の汚職摘発を担ってきた。
法務検察の幹部は赤レンガ派と呼ばれる東大や京大出身の法務官僚と現場捜査畑の検事に大別され、検事総長の多くは法務官僚から選ばれる。法務省には、およそ130人の検事が勤務する。黒川はその法務省勤務経験が長い典型的な法務官僚として、検事総長候補の呼び声が高かった半面、政治と検察とのパイプ役を担ってきた。それ自体珍しくはないが、問題は政治との距離感にある。
黒川は2011年8月、法務省官房長に就任し、その明くる12年12月、第2次安倍政権が発足した。以来、官房長として16年9月まで5年以上国会対策を担い、さらに19年1月まで2年あまり、事務次官として省内の事務方トップを務めてきた。官房長として3年10カ月、事務次官として2年4カ月の合計6年あまり、黒川は安倍政権を支えてきたといえる。
黒川東京高検検事長
この間、安倍政権は数々の不祥事に見舞われてきた。官房長時代の14年10月には経産大臣の小渕優子、16年1月には経済財政政策担当特命大臣の甘利明に、事務所の不正経理が明るみに出る。さらに事務次官時代の17年から18年にかけ、森友学園の国有地取引や加計学園の獣医学部設置を巡り、政権を揺るがす事態が続いた。加計学園では文科大臣の下村博文の裏献金疑惑が浮上し、森友学園では財務省の役人たちによる公文書の改ざんまで発覚する。ことに森友事件は市民による背任容疑の告発を受けた大阪地検特捜部が捜査に乗り出し、捜査渦中の18年3月、近畿財務局の職員が自殺した。つい先頃、当人の遺書が発表されたのは記憶に新しいところだ。
これらの事件は、いずれも検察が捜査に乗り出している。しかし、捜査は政権中枢どころか議員本人にも届かなかった。事件で黒川自身がどう立ち振る舞ったか、そこは必ずしも明らかではない。だが、長く務めた政治とのパイプ役として政権を守ってくれた、と首相官邸が恩義を感じてきたのは間違いない。それが、安倍政権の守護神とあだ名される所以である。
しかも安倍政権の不祥事は今なお絶えない。昨年の参院選挙では、法務大臣だった河井克行夫人の案里の秘書が選挙違反を引き起こし、首相自ら主催する「桜を見る会」でも有権者買収の疑いが持ちあがる。
黒川の高検検事長定年延長は、そんな折に飛び出した出来事なのだ。官邸による霞が関の官僚支配はかねて指摘されてきたが、ついに検察のトップ人事にまで手を突っ込んできた、と感じるのは、野党や政府の役人ばかりではないだろう。なぜ安倍政権はここまでしたのか。
ライバルは筋を曲げない男
司法修習35期の黒川には、検事総長レースを争ってきた同期のライバルがいる。それが名古屋高検検事長の林真琴だ。法務検察の関係者は、どちらが検事総長になってもおかしくない逸材だと評す。その35期には、東京地検特捜部で副部長を務めた元衆院議員の若狭勝もいる。
「黒川とは今も家族ぐるみの付き合いをし、林とは修習生時代に同じクラスでした。だからともに親しく、よく知っています。2人は甲乙つけがたく、どちらも検事総長をこなせる人材です。ただ、若い頃の黒川は愛すべき人物で、他人を押しのけてまで俺が、という出世欲を感じなかった。35期で最初から総長候補に挙がっていたのは林で、検事の任官のときには裁判所からも引きがあるほど優秀だった。同期の他の候補でいえば、佐久間(達哉・元東京地検特捜部部長)でしょうか。その2人が総長候補だと見られてきましたが、黒川はそこには入っておらず、将来の総長候補には挙がっていませんでした」
林もまた赤レンガ派のエリート法務官僚として出世してきた。東大法学部ストレート組だ。かたや黒川は早大から東大法学部に編入して司法試験に合格している。その苦労とともに人当たりがいい分、林より政治の世界と同化できた面があるのかもしれない。官房長官の菅義偉などはいたく黒川を買っている。
林名古屋高検検事長
政治から独立していなければならない準司法官とはいえ、その実、ときの政権は法務省人事をいじれば、検事の出世レースを左右することもできる。ことに安倍政権下の黒川を巡る人事では、過去、幾度となく政治介入が取り沙汰されてきた。有体(ありてい)にいえば、官邸は黒川を官房長や事務次官にとどめることにより、ライバルの林を出世から遠ざけていった感がある。
最初の煮え湯
事務次官や官房長は、法務検察組織全体の序列で見れば、5番手、6番手だが、検事総長の登竜門に位置付けられている。黒川のライバルである林は安倍政権下でどちらのポストにも就いていない。つまり安倍政権下の検事総長レースでは、官房長と事務次官を7年も譲らなかった黒川が林をずっとリードしてきたことになる。安倍政権はそのためにかなり強引な手段を使ってきた。先の若狭がこう苦笑する。
「林も(2014年1月から)法務省で刑事局長を務め、共謀罪の導入では非常に苦労した。官邸に押し切られたところはあるけど、国会答弁を頑張ってこなし、法の成立にこぎ着けたのです。だから、次は事務次官になるつもりだった。ただ林はいい意味で典型的な法務官僚で頑ななところがあり、法の筋を曲げない。官邸はそこが気に入らなかったのかもしれませんね」
16年から17年にかけ、安倍内閣は共謀罪法案の成立を目指した。その国会審議で法務大臣の金田勝年がしどろもどろになり、刑事局長の林が代って答弁した。その功績もあり、法務検察は林を事務次官に昇進させようとした。
法務省が16年7月、林の事務次官就任人事を起案し、内閣人事局に提出した。検事総長の大野恒太郎の9月退官に伴い、東京高検検事長の西川克行が検事総長に昇格し、事務次官の稲田伸夫が仙台高検検事長へ異動する。そこまでは官邸にとって異論のない人事だった。
稲田検事総長
問題は林の事務次官昇任である。ここで法務検察は黒川を官房長から地方の高検検事長に異動させようとした。すると、黒川より先に林が事務次官になり、総長レースで黒川を逆転する。
奇しくもこのとき事務次官として、検察人事を起案し、官房長官の菅に了解を求めたのが、今の検事総長の稲田である。官邸関係者が打ち明ける。
「内閣人事局に提出された検察の人事案では、黒川さんを広島高検検事長に異動させる予定でした。それで、7月の終わり頃、事務次官だった稲田さんが官邸で菅さんと会った。ところが、黒川さんの人事を差し戻されてしまうのです。差し戻しを薦めたのは杉田和博官房副長官で、このとき黒川さんの事務次官への昇進を求めてきた」
元警察官僚の杉田は、安倍が最も頼りにする側近の1人だ。内閣人事局長として、霞が関の部長職候補以上840人の幹部人事を差配する。差し戻しはむろん菅が了承した上でのことである。
官邸にとって林は、黒川の出世に邪魔な存在に映ったのかもしれない。いわばこれが官邸による最初の政治介入といえる。おかげで16年9月、黒川は政権の悲願だった共謀罪導入の立役者として官房長から事務次官に昇進する。この異例の黒川の事務次官昇進人事が、のちのちまで政権と検察とのあいだにしこりを残した。今度の黒川の定年延長問題はこれが伏線になっている。後述するが、そこでは杉田の警察庁の後輩にあたる国家安全保障局長の北村滋もまた、大きな役割を果たしている。北村も官邸を支える中枢人物で、稲田と北村は旧知の間柄である。
検察の本命は名古屋へ転出
一方、検察首脳は林を総長候補に残したかったのだろう。事務次官就任にこだわった。18年1月、再び林を事務次官に起用しようとする。森友学園の国有地取引や公文書廃棄を巡り、大阪地検の捜査や会計検査院の調査がおこなわれていたさなかのことだ。ある検察OBが解説してくれた。
「検察首脳は国民から不信をもたれないよう、黒川を名古屋高検検事長に転出させるつもりでした。ところが、ここでもまた官邸に人事案を差し戻された。表向き法務省の国際部門設置を巡り、上川(陽子)法務大臣が林にバツをつけ、黒川を残留させたことになっているけど、ここも杉田さん、というより北村かも」
そうして黒川が事務次官に留任する結果となり、逆に林が刑事局長から名古屋高検検事長に転出した。検察幹部たちにとって2度の政治介入はショックだったに違いない。政権との関係がますますおかしくなっていった。
黒川はその1年後の19年1月、前任の八木宏幸の退官を受け、東京高検検事長に就任する。稲田と同じ56年生まれの八木はショートリリーフと見られ、法務検察首脳としても八木の退官は織り込み済みだった。代わって東京高検検事長ポストを射止めた黒川は、念願の検事総長に昇りつめるまであと一歩のところまで来ていた。とうぜん官邸は、これで黒川が稲田の次の総長の椅子を手中にしたものと見ていた。
総長の静かなる反抗
だが、実は何度も煮え湯を飲まされてきた法務検察の真意は、別のところにあった。検事総長の稲田は、黒川に後継の椅子を譲るつもりはなかったようだ。ある検察関係者が打ち明けてくれた。
「稲田総長は、あくまで林を後継総長にすると決めていました。その意思を固めたのが、まさに黒川の東京高検検事長就任を認め、内示をした18年末。このときから20年2月の黒川の定年を見越し、検察庁の総意として林後継総長で動くつもりだった」
人事でさんざん官邸にしてやられ続けてきた検察による静かなる反抗といえる。
検察の首脳人事は、定年と密接にかかわっている。検事総長の定年は65歳なので、1956年8月14日生まれの稲田は、来年8月の誕生日前日まで総長として務めることができる。ただ、検察の慣例人事として検事総長は2年を任期とし、後進に譲るパターンが多い。稲田も今年4月に京都で開催される予定だった「第14回国連犯罪防止刑事司法会議(京都コングレス)」の出席を花道に、7月に退官するつもりだった。世界最大規模の司法会議は新型コロナのせいで流れてしまったが、それは誰も予想していない。
稲田が7月まで総長として務めれば、2月8日が誕生日の黒川は、7日をもって定年退官しなければならなくなる。そして7月30日で63歳の誕生日を迎える名古屋高検検事長の林がその後釜の東京高検検事長に就き、改めて検事総長に着任すればいい。稲田の腹積もりはそんなところだった。
そうして首相官邸と検察の思惑がすれ違ったまま、19年の春が過ぎ、夏を迎えた。官邸が検察の動きを警戒し始めたのは、その頃だ。官邸側で稲田に探りを入れていたのが、国家安全保障局長の北村だった、と先の検察関係者が続ける。
「もともと北村と稲田は同い年。2人は警察庁と検察庁との違いこそあれ、各省庁で見込みのある若手官僚が語学研修する人事院研修(2年間の海外派遣研修)でいっしょになったと聞いています。研修先は北村がフランスで稲田はアメリカですが、それ以来、最近までときどき飲んでいるような間柄でした。その中で総長人事について、北村が稲田の腹を探り、早期辞任は間違いないと思い込んだようです」
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