朝日新聞が村山美知子社主に書かせた「遺言書」
3月3日に99歳で他界した朝日新聞社の村山美知子社主。実は朝日新聞経営陣と村山家の間では、ここ数年、株式の問題をめぐり熾烈な駆け引きが続いていた。そして、社主の持ち株割合を下げるために、朝日新聞社の経営陣は“暴走”を始める。「ここまでやるのか…」と漏らすほど不誠実な経営陣の対応を、村山氏の元秘書役が赤裸々に明かした。/文・樋田毅(元朝日新聞記者・ジャーナリスト)
社主のことを歴史に残したい
私は縁あって村山美知子さんに都合7年間、秘書役としてお仕えいたしました。彼女は朝日新聞社の社主であり、創業者・村山龍平翁の孫にあたります。
朝日と村山家の間は長年、株式の問題などを巡り、緊張関係が続いていました。私はいつも「美知子社主」と呼んでいましたが、私の密かな任務は、社主のお世話役を務めながら、村山家の内情を探ること。しかし、長く出入りするうちにその気品に溢れた人柄に惹かれ、社主家の重荷を背負い続けた人生に深い共感を寄せるようにもなりました。
そして、“あること”をキッカケに、朝日新聞の美知子社主への対応に納得できない思い、義憤のような思いを抱くようになったのです。
神戸市御影の6000坪もの豪邸で暮らし、「最後の深窓の令嬢」とも言われた美知子社主でしたが、2015年7月からは大阪の北野病院に入院していました。晩年はほとんど意識がなく、会話もできない状態だった。
御影の超豪邸
甥の村山恭平さんから「伯母(美知子氏)の血圧が急に下がった」と連絡を受けたのは、3月2日昼過ぎのことです。緊急時に備え、病院から程近いマンションを借りていたので、そこから急行しました。一旦小康状態になって部屋に戻ったのですが、夜11時20分頃に「亡くなった」と電話があって……。15分後、社主と最後のお別れをしました。
「やっと楽になりましたね」
そして、こう伝えたのです。
「社主のことは約束通り、歴史に残るように書き残しますね」
樋田氏
村山美知子氏(享年99)の祖父・村山龍平氏と上野理一氏が創業した朝日新聞。6割を超える株式を所有してきた村山家、上野家という「社主家」の存在は長い間、朝日の経営陣を悩ませてきた。
社主家と経営陣の対立が先鋭化したのが、1963年の「村山騒動」だ。美知子氏の父・村山長挙(ながたか)社長(当時)が大株主の権利を行使し、役員人事を強行。反発した経営陣によって、長挙氏は解任に追い込まれた。以後、経営陣は上野家と良好な関係を保つ反面、村山家とは“冷戦状態”に陥っていく。村山家の持ち株数をいかに減じさせるかが、歴代経営陣の宿願であった。
一方、78年に朝日新聞に入社した樋田毅氏(68)は、グリコ森永事件の取材など“事件記者”として名を馳せた。中でも阪神支局が襲撃された赤報隊事件(87年)では取材班キャップを務め、3年の時効後も個人として取材を続けてきた。
その樋田氏は07年4月、大阪本社秘書課主査として美知子氏の秘書役に就任。両親から株を相続していた美知子氏はダントツの筆頭株主(36.4%)だった。
想定外の人事でした。当時の私には、社主家と経営陣が揉めているという知識すらなかった。私を指名した上司は大阪本社代表だった池内文雄氏です。池内氏とは赤報隊事件の取材で縁があり、事件記者としての実績を買ってくれたのかもしれません。フットワークが軽く、体力もある。株式譲渡などのややこしい懸案事項にも対応できる、と見られたのでしょう。
実際、社主の秘書役は代々、大阪社会部の記者経験が長い人物が務めていました。前々任者ははっきりモノを言うタイプで、社主はそこを気に入っておられたと思いますが、最後は解任されたようです。前任者は逆に従順なタイプ。その時々の状況に合わせた人選だったと思います。
トンデモない世界に
とはいえ、最初は美知子社主と会話することも叶いませんでした。大声で「ただいま樋田が参りました」と声を掛けても、付き添いの女性から「御用がなければ、お会いできないとのことです」と返されたり。トンデモない世界に入ってしまったな、と思いましたね。それでも「用」を見つけてやり取りしていくうちに、次第に打ち解けることができた。社主から「あなた、私に気を遣い過ぎなのよ」と笑われたこともありました。
美知子社主(米寿祝いDVDより)
ただ、美知子社主は生活全般に強いこだわりを持っていたのは確かです。例えば、朝食のパンはウェスティンホテル大阪の「ホテルショップ・コンディ」にある「パンドミ」。トースト具合も「うっすら焦げ色がついたもの」にこだわっていました。
傍で見守っていて、感心させられたこともあります。朝刊、夕刊が届くたび、1階にある先祖の遺影が並ぶ前に作られた「祭壇」にお供えするのです。1時間の「お供え」が終わった後、書生が2階に新聞を届け、社主は「ご苦労様」と言って、おもむろに新聞に目を通していました。
「まず、お祖父様、お祖母様、お父様、お母様に新聞を読んでもらうのよ。私は、その後」
社主はそう話していましたね。
ただ、経営に物申すことは控えておられました。村山騒動の後に作られた社主規定には「式典には出席するが、経営には関わらない」などと定められています。美知子社主はこの規定を守り、“象徴天皇”のような役割を自覚されていたのです。
むしろ心血を注いでいたのは、世界的な音楽家や楽団を招く「大阪国際フェスティバル」などの音楽事業でした。あのカラヤンやストラヴィンスキー、小澤征爾らが美知子さんをどれほど愛し、信頼していたか。そのことは申し上げておきたいと思います。
カラヤン(左)と社主
経営陣が警戒した甥の存在
私が秘書役に就任した当時、経営陣が最も危惧していたのが、「外資に乗っ取られる事態」でした。05年にはライブドアがフジテレビ買収のため、親会社のニッポン放送株を大量に取得する問題も起きていた。
中でも経営陣が神経を尖らせていたのが、美知子社主の妹・富美子さんの息子・恭平さんの動向です。社主には子どもがいません。彼がたった一人の血の繋がる甥でした。
06年12月、恭平さんの呼び掛けで、今まで疎遠だった村山、上野両家の食事会が開かれました。この時点で、美知子社主と富美子さんと恭平さんの株式を合わせると、全株式の45.3%。ここに上野家の株式も加えると、64.53%に及びます。かつて上野家は会社寄りでしたが、もし両家が連携すれば、支配権を完全に掌握できてしまう。
さらに恭平さんは07年6月、「週刊文春」の取材に応じ、食事会の内容や参加者を明かしましたが、元アスキー社長・西和彦氏が同席していたのです。西氏は上野家の遠縁で、恭平さんが勤務していた大学の同僚。文春は「恭平氏が外資系ファンドなどに通じた西氏に相談すれば、外資への株売却もあり得る」とも報じていましたが、この記事は朝日の経営陣を震え上がらせたといいます。
ただ、恭平さんの一連の行動にも「動機」があった。莫大な相続税の問題です。彼が試算した結果、税法上、「支配的な同族株主」と見なされると、600億円もの納税を迫られかねなかったのです。ずいぶん後になって、こう説明してくれました。
「当時、スイスのUBS銀行などから助言を受けていましたが、議決権を制限する特殊株などで買収防衛策を講じるしかないという結論に至った。しかし、私の提案を説明する場はなく、週刊誌に話せば経営陣にも伝わるのでは、と考えたのです」
一方で、当の美知子社主は恭平さんを「残念だけど、村山家を継ぐ器ではないわね」と評していました。食事会も恭平さんに誘われて出席したものの、上野家や西氏の同席を知らされておらず、「私を騙すように連れて来て」と憤慨していたほどです。困惑した表情で「あの子は一体、何を考えているのかしら」とこぼすことも多かった。
美知子社主の「決断」
いずれにしても、相続税の問題は残ります。そこで、村山家の顧問弁護士だった西迪夫氏と秋山耿太郎社長らとの間で「全株式を朝日新聞文化財団に寄付」するという交渉が水面下で進展していました。会社側は見返りに、社主の生活を生涯にわたって保障するなどの提案をしていた。そして07年9月10日、この話が一旦まとまったはずでした。
ところが翌日、側近たちがその合意を覆すよう美知子社主を説得します。結局、社主は譲渡契約書を白紙に戻し、顧問弁護士を解任する、という内容の手紙を西弁護士らに送りました。両親から引き継いだ株を手放すことに迷いも生じたのでしょう。
美知子社主の突然の翻意に、秋山氏らは落胆の日々を送り、しばらくやけ酒の日々だったと聞きます。
秋山耿太郎元社長
それでも、07年の暮れ頃から“次の案”が動き出します。大まかに言えば、美知子社主の株式を3分割し、3分の1をテレビ朝日に売却、3分の1を村山家ゆかりの香雪美術館に寄付、残り3分の1を社主が所有し続けるという内容でした。
悩める美知子社主の背中を押したのは、ペースメーカーの埋め込み手術だったと思います。重度の不整脈に悩まされ、夜中に1分間以上、脈が止まってしまうこともあった。私にも「入院前にどうしても決めなければ……」と漏らしていました。
そして、社主は「決断」を関係者に伝えます。その時の吹っ切れた安堵の表情は今も忘れられません。08年6月5日、香雪美術館は寄付を承認するため、村山邸の食堂で理事会、評議員会を開きます。ところが、会が始まって30分後、門を激しく叩く音がしました。
「なぜ開けないのか」
怒鳴っていたのは、恭平さんです。玄関に向かう恭平さんに、私は体ごとぶつかり、スクラムのような体勢になった。恭平さんも押し返してきましたが、突然、彼は「もう分かった」と組み手を離した。私たちは近くの喫茶店に場所を移し、2時間ほどよもやま話を続け、この間に理事会、評議員会は終了したのです。
なぜ恭平さんは組み手を離したのか。後になって尋ねると、「あの日の数日前、伯母に会って、株が心配だと話すと、『あなたはでんと構えていたらいいのよ』と。その言葉が胸によぎり、伯母に任せようと思ったのです」と打ち明けてくれました。
美知子社主には、株の売却代金など80億円余りの預金や土地が残りました。富美子さんと恭平さんの持ち株8.57%を合わせても、村山家の持ち株は20%に届かず、歴代経営陣の宿願が達成されたのです。
この2日後、美知子社主はペースメーカーの埋め込み手術を受けるために、北野病院に入院します。手術は成功し、社主は元気な様子で、御影の自邸へ戻られたのでした。
経営側に有利な遺言書
しかし、「資本と経営」との闘いはまだ終わっていませんでした。
この話を知ったのは、さらに4年後になるのですが、実は秋山氏らは株式譲渡の枠組みが決まった08年の春先、美知子社主に遺言書の作成を持ちかけていたのです。
「テレ朝は上場会社なので、手続きに時間がかかる。万が一に備え、遺言書を作って頂けたら安心です」
秋山氏は後日、「そんな言葉で、どさくさに紛れた感じで説得した」と私に説明してくれました。
遺言書は、美知子社主の死後、朝日の株式を含めた全財産を「包括的」に香雪美術館に遺贈するという内容です。美術館は龍平翁が心血を注いで集めた美術品を収蔵するため、長挙夫妻が73年に開設した施設。当時の理事長は美知子社主です。社主にしてみれば、美術館は「村山家そのもの」という意識があり、違和感がなかったのかもしれません。
しかし、朝日からすれば、新たな資金負担ゼロで、村山家の“権力の源”でもある朝日の株式を別組織に移すことができる。今思えば、経営側に非常に有利な遺言書です。秋山氏は「恭平さんが美術館の理事長になるのは悪夢だ」とも語っていましたが、実際にこの後、美術館の役職者を選ぶ委員会が設けられ、その懸念もほとんどなくなりました。
その1年余り後、「富美子と恭平にお金を遺したい」という美知子社主の希望で、2人に5億円ずつ遺贈するという内容に遺言書は書き換えられました。逆にこの書き換えで、遺言書が社主の意思を明確に反映している根拠もできた。経営陣は「渡りに船」ととらえていたと思います。
結果的に全てが朝日の思い通りに進みました。株式の分割手続きも完了し、私は09年春、関連会社に出向します。もう村山家の仕事に戻ることはない。そう思っていました。
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