佐藤優「白い巨塔」ベストセラーで読む日本の近現代史103
医学部のモラルハザードを扱った古典
日本の医学界の封建的構造、大学病院勤務医と開業医の対立、人事を巡る医学部のモラルハザードなどを扱った社会派小説の古典だ。もっとも医学界だけでなく、中央省府、難関大学には現在も『白い巨塔』で描かれたような人事抗争が起き、封建的構造が残っている。
黒川五郎は岡山県の貧農の出身で、父親が早く他界したこともあり、母親によってたいせつに育てられた。五郎は苦学して浪速大学医学部を卒業した。学業を続けるには経済的裏付けが必要だ。母親は五郎に大阪の遣り手産婦人科医である財前又一の婿養子になることを薦める。それを受け入れ黒川から財前に姓を変えた五郎は浪速大学に残り、キャリア街道を順調に進み助教授となる。
主任教授の東貞蔵の定年退官が近付き、後任人事が動き出したとき、東は財前を排除する画策を進める。東都大学出身の東は、東都大学医学部教授で外科学会に強い影響力を行使できる船尾徹に相談を持ちかける。
〈「ええ、来年の3月がいよいよ私の停年退官の時期にあたっているので、私のあとを継いで、うちの第一外科を切って廻せるような人物がほしいのですよ」(中略)/「おたくには、あの財前君という食道外科で定評のある、腕のたつ助教授がちゃんといるじゃありませんか(中略)彼の姿をつくづくと見ましたが、いかにも手八丁、口八丁といったような精力的な体格と風貌で、十分に教室全体を率いて行けそうな人物じゃありませんか、それをどうして、次期教授に据えないのです?」/「さあ、そこなんですよ、確かに仕事はよく出来ますが、手八丁、口八丁でやり過ぎるところがあり、すべてにわたってスタンド・プレーが多くて、そうした点で、教室内のまとまりがうまく行かないので困っているのですよ、そこで、どうでしょう、誰かお心あたりの人材がありませんかね」〉
東の動機は財前に対する嫉妬だ。ただし、嫉妬心を抱く知識人の常として、東は自分が財前に嫉妬しているとは認識せず、この男を後継教授にしないことが医学部のためになると確信している。
あらゆる手段で教授に
財前は腕が良く、特に食道噴門癌の手術に関しては第一人者と見なされていた。腕は良いが上昇志向が強い財前は、あらゆる手段を駆使して教授になろうとする。そして手下の助手、佃と安西を用いて種々の画策をする。また義父の財前又一は、買収工作を行う。
決選投票には医学部長が推す財前と東が推す菊川昇・金沢大学医学部教授が残った。決選投票の4日前に、佃と安西が金沢の菊川邸に押しかけ、立候補辞退を求める。
〈「では、先生は、決選投票前には辞退しないが、投票の結果、もし東先生の後任教授に選出された場合には、辞退なさるとおっしゃるのですね」/言質を取るように安西が云うと、菊川の顔に険しい色が奔った。/「僕がどれだけ自分を抑えて話し合っているか、あなた方には解らないのですか(中略)」/ぴしりと打つような激しさで云った。佃と安西は、はっと顔色を変え、/「先生、失礼致しました(中略)万一、先生が、本学の教授に来られるような事態になりました時は、われわれ医局員一同は、一切のご協力を致しません、したがって、先生の将来の学者的生命にも関することだと、お考えおき下さい」/捨台詞するように云うと、佃と安西は、慇懃すぎるほど慇懃な一礼をして、席を起った〉
この事件が発覚し、財前は一時守勢に追い込まれるが、自分は無関係と主張し、決選投票で2票差で教授に選出される。
教授になった財前は西ドイツでの国際学会へ招待される。出発直前に中小企業社長の佐々木庸平の胃癌の手術をする。佐々木のレントゲン写真には肺に陰影があったが、財前の部下の柳原弘と、学内政治から距離を置き、研究と患者本位の医療に従事する内科医・里見脩二助教授(最初に佐々木を診察した)の進言を受け入れず、断層撮影検査を怠り、手術を強行した。その後、佐々木は高熱を発し、呼吸困難に陥る。
財前は術後肺炎と見立て、診察もせずに西ドイツに旅立つ。佐々木は、癌性肋膜炎で呼吸困難を起こし、術後22日目に死亡した。里見は解剖を勧め、遺族もそれを受け入れる。遺族は財前と大学病院の不誠実な対応に憤慨し、民事訴訟を起こす。第1審で原告は敗訴した。
〈(前略)佐々木庸平の死に対する法律的責任を被告財前に認めることは出来ないので、原告等の請求を棄却したものである。/しかしながら、如何に国際学会出発前で多忙であったとはいえ、(中略)医師として、著しく責任感に欠け、その点、被告財前は、医師としての道義的責任について厳しく反省しなければならない」〉
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