SEIJI|軽井沢滞在記《1》―堀辰雄のかげを求めて―
切れかけの蛍光灯のような、鈍く発光した空の下、わたしは苔むした石畳をじりじりと歩んでいました。降ったり止んだりの絶え間ない繰り返しで湿った石は、非常に滑りやすいのです。道の両脇には生い茂った木々が、わたしを覗き込むようにじっと並んでいます。
(軽井沢とはこんなにも陰鬱なところだっただろうか?)
わたしは汗ばんだマスクをむしり取るように外しながら――自分以外に音を立てるものといえば時折耳元でうなる虫だけです――、坂道を上ってゆきました。そういえば、もう随分と青空の反映を見ていませんでした。
「幸福の谷(ハッピィ・ヴァレイ)」と呼ばれるこの地で、堀辰雄は川端康成の別荘(といっても素朴な山小屋)に滞在しながら『風立ちぬ』の最終章を書き上げました。万平ホテルから駐車場の裏手を下ってすぐのところにあるこの一帯を、堀辰雄はこう記しています。
こんな人けの絶えた、淋しい谷の一體どこが幸福の谷なのだらう、(…)死のかげの谷。・・・・さう、よつぽどさう云った方がこの谷には似合いさうだな、(…)
.....『風立ちぬ』最終章「死のかげの谷」より
彼が死と形容したのは雪の降る季節でしたが、霧雨が漫然と苔を湿らすばかりのこの時期には、その影は確かに存在するものの、どこか息を潜めているようでした。
今回滞在した万平ホテルは、堀辰雄自身も逗留したほか、三島由紀夫の小説『美徳のよろめき』の舞台になったことでも知られるクラシックホテルです。わたしは偶然にも、ジョン・レノンの常宿だったアルプス館の128号室に泊まることができました。ちなみに、三島のお気に入りは123号室。
部屋のつくりは和室なのに、家具調度は重厚な洋風というのが、どこか日本におけるホテル文化の黎明期を感じさせます。木造の建築は得てして外部から音が入りやすいものですが、ここでは一切そのようなことはなく、キンと耳鳴りまで聞こえるほどの静寂が最高のもてなしとして用意されていました。そう、わたしが求めていたものはこれでした。
深紅のビロード張りのソファ。同じ軽井沢にある旧三笠ホテルでも見かけた猫足のバスタブ。
万平ホテルでは食事の時間になると、ポーンとどこからか響くチャイムが知らせてくれます。この習慣はずっと昔から変わらないそうで、ここに滞在した数々の著名人・作家も日が暮れなずむ頃に同じ音を聞いていたのでしょう。何もかもが非日常ですが、あえて日常として自分の心と体を舞台装置に当てはめると、まるで過去の時代を生きているかのように楽しめるのが、クラシックホテルの醍醐味だと思います。(これを楽しめるか否かで滞在の快適さも変わるような気がします)
そして今回、密かに心待ちにしていたのがロビー奥に広がるダイニングルームでの食事でした。期待を超えて感覚を圧倒する建築の美しさ。かつての軽井沢を描いた大きなステンドグラスにシャンデリア、けれどもどこか和の趣のある木の天井……他のどんな場所にもない、唯一無二の空間です。
***
翌朝は珍しくすっきりと目覚めたので、ホテルの周辺を散策することにしました。散策といっても、目的は歩くことそれ自体だったのですが… 『美しい村』に描かれたフーガの径(小説ではチェコスロヴァキア公使館からバッハのト短調フーガが聞こえてくる)、サナトリウムレーンと呼ばれる川沿いの小道を進みます。昨夜の雨でぬかるんだ土を避け、時に踏みながら、決して音楽的とはいえない歩調で。この辺りはかつて、堀辰雄の所有した1412別荘があった場所ですが、現在は軽井沢高原文庫に移築されています。
南側の別荘地をぐるりと一周した後、ホテルに続く万平通りを過ぎ、室生犀星の別荘方面へと向かいます。その頃には鼓動も速く、熱い血が体を巡り始め、さまざまな思考が浮かんでは消えていました。木々の向こうにちらほらと覗かれる別荘には明かりが点いているものの、同じだけ朽ちた山荘も見られ、静けさは相変わらず肌にしっとりと纏わりついてきます。
静寂。
都会の喧騒に暮らすわたしたちにとって、静けさというのは本当の贅沢となってしまったのでしょうか。ホテルのカフェテラスで珈琲を飲みながら、その難解さから避けていた哲学書を開いてみると、驚くほど内容がクリアに、頭の中に入ってくるのです。「考える」という行為と静寂の切り離せない関係を文人たちは見抜き、ゆえに思索するための地として軽井沢が選ばれたのでしょう。
どことなく平時ではない、目に見えない異様な雰囲気がホテル内にも感じられましたが、都会の心理的・空間的圧迫から一時でも逃れることは健やかに生きる上でとても大切なのではないかと思います。迫られて考えるのではなく、自ら考えるための静寂が、軽井沢にはそなわっているのです。
――そして一つ、忘れてはいけません。軽井沢の澄んだ空気のなかで味わう料理は、地産のお酒は本当に……美味しいのです! お陰で自粛期間で減った体重もすっかり元に戻ってしまいましたが、これも多くの人がまた訪れたいと願う理由の一つではないかと思います。
青磁
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