新聞の山を片付ける作業から生まれたコミニュケーション
やれ断捨離だシンプルライフだと言って身の回りの整理をしていると、自分のスペースである部屋以外の場所も気になり出すものらしい。今日は家族と一緒に部屋の古新聞の山片付けた話を記録したいと思う。
気付き① 億劫な片付けは誰かと一緒にすると楽しい
今日は、リビングの隅の椅子に高く積まれた新聞の山を片付けた。母に毎日連載のコラムと毎週連載の小説を切り抜くために勝手に捨てるなと言われていたため私は全く手をつけず、かと言って母が定期的に整理をするわけでもなく、たまればたまるほど作業のハードルも上がってリビングに高い山が形成されたという訳だ。
自分の必要な切り抜きをして片付けてよと無責任に伝えるのも良くないかと思い、母に許可を取って私がコラムと小説の切り抜きを行うことにした。新聞の回収袋を横に置いて無心でコラムを切っていると、母が手伝うと言ってリビングにやってきた。これまで全くやる気を見せなかった母も一緒だと喜んでやってくれるのだという気付きがあった。かなり時間はかかったが、コラム以外の理由で取ってあったらしい新聞の整理も終わり、高く積まれた山は綺麗さっぱりなくなった。心なしか心も軽くなった気がする。
作業をしながら目に入る見出しは会話のきっかけとなり、最近は何となく上手く話せていなかった母とも穏やかな時間を過ごすことができた。
気付き② 過度の情報の山は人を動けなくする
新聞でも読み損ねた雑誌でも、昔の情報が自分に処理できない程の山になってしまうと片付けが猛烈に億劫になる。これは新聞だけではなく他の物にも言えることだろう。無心で切り抜きをするだけでも結構な疲労感があったことから、片付けという行為がエネルギーを要することだと改めて実感した。
おわりに
今回ささやかながら片付けを手伝って、いい年して両親の意見と自分の意見が異なるから何もしないで不干渉でいよう、という立場を取り続けていたことを少し反省した。考えを押し付けるのではなく、良い解決策を探る姿勢を示して働きかけをすることが、共に暮らす者同士が心地よい時間を過ごすために必要なことなのだろう。