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春に気づいた

2024.03.17
20:58

こんな時間に、と言っても21時なのだが、こんな時間に東京にいる自分になった。前の春に東京に越して来るまでは、21時に東京にいるシチュエーションというのは、放課後特急に飛び乗ってミュージカルを見に日比谷に行って、終演後次の日の学校に備えてせかせかと東京駅のフォーラム口を歩いているくらいだ。もう3月も下旬だからとタイツを履くのをやめた生足が制服から伸びて、強がる気持ちとは裏腹に鳥肌が立っている。

それが今は、バイト終わりに本屋に行き、買った本をチェーンのカフェで周りの喧騒の中で読み、お風呂に入る体力と時間を残して家に帰るためにゆっくりと池袋駅前を歩いている。


街行く人の香水の香り方が変わったと思った。今年はそうして春に気づいた。

人を掻き分けて足を進めながら、ああ変わったな、昔のことを忘れてしまったな、今日のことも忘れたくないなという思いが頭を掠めると右手親指が文字盤の上をタップダンスさながらに舞っている。


去年までは大地から滲み出る春の匂いに心を突き動かされて、春だから、と淡い色のジーンズ、スニーカーに身を包み、田んぼの間を歩いていた。

まだ新春の頃から裏庭に咲く、黄色くて見るからに脆弱な蝋梅を愛でていると、土筆が生えていることに気づく。誰よりも早く気がつきたいのに、毎年観察するのを忘れている。じきに庭に痕跡を残すもぐらに頭を悩ませ、山を持つ祖父から筍が届く。日が暮れるまでに外で皮を剥いてすぐに茹でないといけないから、夕方に持って来られると母が愚痴をこぼしながらも夕食の準備と並行して器用に茹でていた。

隣家の畑にある桜は、開花予想なんてものよりも早く咲くのだ。鶯が競い合うように鳴くたびに、わたしは家の中で春に生気を吸い取られたように力なげに「ほーほけきょ」と呟く。


これでもまだ春は健全だ。

新しく手に入れる教科書にネームペンで名前を書き、インクが乾くようにずらして並べている時間の愛おしさよ。国語の教科書は、もらった日に全部読み尽くすし、ノートの1ページ目は文字を綺麗に書きたくて逆に見にくくなってしまったり、教科書やノートの角が尖っていて触れるとささりそうだったりする。あまりにも健全で、今振り返るとパステル調の映像で脳内再生される。


今年は春がやってきたのではなく、知らぬうちに自分から春に突入してしまった気がした。可愛かった時代は終わって、これからは肉に塗れた時代になるのだろう。ついにここまで来たという実感と一抹の不安と寂しさが、わたしの背中を押している。

ここでは葉玉ねぎは売っていないし、ピンクの野花も見かけないが、これはわたしの道で、誰と共に行くものでもない。いつまでもノスタルジーにはまっているわけにはいかない。そうして今夜もまた一歩ずつ足を進める、2024年の春。

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