鮫と斎藤とフカヒレ:中編
とある短歌を解釈して、わたしが好きになれない要因を考える記事の中編。前・後編で終えるつもりが、長くなったので分けた。
前編はこちら。次の短歌をフカヒレ短歌と呼んで、構文的な視点から6通りの解釈を書いた。
短歌は短い。一首の短歌には情報が圧縮して込められている。わたしたちは半ば無意識に、短歌の「外」にある言葉や知識と組み合わせて、情報を取り出している。(※注1)
中編であるこの記事では、最低限必要な「外」の知識を使って、フカヒレ短歌から情報を取り出す作業をあえて意識化してみたい。(※注2)
まだるっこしいのが嫌いな方は、最後のまとめだけお読みください。
1.読者に求められる知識
フカヒレ短歌の読解には、21世紀前半の日本社会や文化の知識が必要だ。その最低限のラインはどこだろう?
たとえば、破産手続の詳細やフカヒレスープの美味しい店の知識は必要ない。鮫が海の生き物だという知識も不要だろう。
ちょっと突拍子もない想像をしてみる。
未来では鮫が絶滅している。そんな未来にも、21世紀前半の日本語文法と短歌という詩型を知る人がいる。けれども、その未来人は21世紀前半の日本のことをよく知らない。未来人に何を教えてあげればいいだろう?
こう考えれば、フカヒレ短歌はだいたい7種の知識を要求している。
A.恋人同士は基本的に親密
未来にだって恋人に類する概念(?)はあるだろう。ポイントは「恋とはどんなものかしら」的な話がフカヒレ短歌の読解に必要ないということだ。
(性的なものも含めて)親密な関係にある人が恋人だ、という程度の知識が求められている。
B.鮫に噛まれて死ぬ人もいる
国際サメ被害目録(ISAF:International Shark Attack File)の2012年~2021年の10年間の記録では、鮫に噛まれた事例が世界全体で計761件、うち60件が死に至ったそうだ。
1975年公開の映画『ジョーズ』の知識は必要あるまい。21世紀までに『ジョーズ』が広めたであろう、人を噛む動物としての鮫イメージだけが必要な知識だ。
C.斎藤は人名(姓)
21世紀前半の日本人の大部分は、書類上の名前が姓と名で構成されている。そして斎藤はそのうちの姓として珍しくない。(※注3)
フカヒレ短歌が要求するのは、斎藤が日本人としては珍しくない姓だという知識だ。
D.人を姓のみで呼ぶ条件がある
人名の一部だけで人を呼ぶのは普遍的なことだろう。とはいえ、どんな呼び方も同じニュアンスを持つわけではない。
21世紀前半の日本では、姓のみで呼ぶ状況は限られている。あだ名で呼ぶほどでもない友達どうし、小説の地の文、…などなど。とくに小説の地の文だと、姓のみで呼ばれる人物は男性に偏る。(※注4)
人を姓のみで呼ぶこのような条件について知識が求められている。
E.破産は金が払えなくなること
破産というのは法的には色々と細かな決め事がある。(名古屋地裁の解説が分かりやすかった。)
そこまで厳密でなくとも、財産を失う程度の意味で「破産」と言うこともある。
21世紀前半の日本では基本的に金を払って経済活動をしている。それなのに金を払えなくなるのが「破産」だ、という程度の知識が求められている。
F.フカヒレは鮫から取れる高級食材
比較的安価なフカヒレもあるし、人工フカヒレもあるらしい。それでも基本的に鮫から取るフカヒレは高価だ。
21世紀前半の日本では、基本的に金を払わないとフカヒレを食えない。そしてフカヒレという食材目当てに鮫が人に捕獲されている。これが求められている知識だ。
G.物語は脇役の死で展開されがち
フカヒレ短歌の読解には物語についての知識も求められる。
主人公と親密な脇役の死をきっかけに展開する物語は、とてもありふれている。メタ的に茶化したギャグ漫画もあるくらいだ。
そうした物語では、親密な脇役の死をきっかけに、主人公が旅に出たり復讐したりする。主人公が男性なら、死ぬ脇役は女性に偏るらしい。英語圏で言う「冷蔵庫の女(Women in refrigerators)」の問題だ。(※注5)
フカヒレ短歌の読解には、おそらく「冷蔵庫の女」問題も含めて、物語の知識が必要だ。
2.圧縮された情報を解凍する
以上の7種の知識をフカヒレ短歌の言葉と組み合わせよう。短歌の言葉として圧縮された情報を解凍して取り出していく。
「(人物)を鮫に食われた」
「鮫に食われた」という言葉はどんな内容か。同じ「食われた」でも「蚊に食われた」と「鮫に食われた」では違う。
「おでかけ子ザメ」的ビジュアルの鮫が笑顔でぺろり、という内容だと読み解けなくもない。けれど、そう読み解く必然性もない。だから、そういう方向は却下だ。
ここでBの知識を組み合わせる。鮫は人を噛んで、ときに人を死に至らしめる動物だ。すると、この「(人物)」は相当な被害を受けているはずだ。噛みつかれたり、体の一部を食いちぎられたりしているだろう。
「恋人を鮫に食われた」+「フカヒレを食う」
Bの知識だけなら、鮫に食われた恋人の生死は分からない。直接的な描写はないからだ。
けれども、同じ「食う」という動詞の出現が、恋人は鮫の口に呑み込まれて死んだと読み解くことを要請する。ちょうどフカヒレが人の口に呑み込まれるように。
恋人の死、という読解は別の角度からも補強される。
前編で書いたように「恋人を鮫に食われた」はいわゆる持主受身の文だ。この文の〈視点人物〉にあたる主語は「恋人」ではない。この文の〈視点人物〉が主人公なら、恋人は脇役だ。
これにAの知識を組み合わせると、主人公にとって親密な脇役が鮫に食われたことになる。
フカヒレ短歌では、次の図式のように突拍子もない物語が展開している。
ここにGの知識を組み合わせる。物語の展開上、脇役の死はありがちだ。となると、恋人が鮫に食われて物語が展開することが、脇役である恋人は死んだと読み解くことを要請する。
フカヒレ短歌の恋人は性別不詳だ。ところが、この恋人をなんとなく女性だと思う人が多いのではないか。(違ったらごめんなさい。)
わたしの憶測が正しいならば、「冷蔵庫の女」的な物語に馴染んだ読者は、脇役として死ぬならば女性だという読解へ誘導されている。
「斎藤が」
フカヒレ短歌のある登場人物を、〈語り手〉は「斎藤」と姓で呼んでいる。このことはCの知識無しに分からない。(漢文を読むとき人名が分からない経験をした人もいるだろう。)
そこにDの知識を組み合わせと、姓を敬称ぬきに呼ぶことが〈語り手〉と斎藤の関係を表現していると分かる。小説の地の文なのか、まあまあ親しい間柄なのか、選択肢はいくつかある。
たとえばフカヒレ短歌を次のように変えたら、〈語り手〉と人物との関係は違うニュアンスを帯びる。
フカヒレ短歌の斎藤も性別不詳だ。ところが、斎藤をなんとなく男性だと思う人が多いのではないか。(これも違ったらごめんなさい。)
わたしの憶測が正しいならば、小説の地の文に馴染んだ読者は、姓のみで呼ばれるならば男性だという読解へ誘導されている。
「破産するまで」+「フカヒレを食う」
「破産するまで」は、フカヒレを食う時間や数量の範囲がどれくらいなのかを表している。
「~まで」という言葉だけでは、時間か数量か断言できない。「日の暮れるまで」なら時間だろうし、「食べ飽きるまで」なら数量だろう。
もちろん「破産するまで」が「申立から手続の開始まで」の時間を表すと読み解けなくもない。けれど、そう読み解く必然性もない。だから、そういう方向は却下だ。
さて、Fの知識を組み合わせると「フカヒレを食う」は「わりと高い金額を支払う」ことを含意すると分かる。ここにEの知識を組み合わせると、高い金額を支払い続けて財産を失う可能性に思い至る。
このような作業を経て「破産するまで」が食われるフカヒレの数量を意味すると分かる。
まとめ
フカヒレ短歌では「鮫に恋人を食われる→フカヒレを食う」という物語が展開している。
その物語へ、わたしたちは上記A~Gの7種の知識を半ば無意識のうちに組み合わせる。そうやって次のような情報を取り出している。
恋人は鮫に噛まれて、おそらく死んだ
恋人は女性、斎藤は男性の可能性がある
食われるフカヒレの数量は財産を失うほどだ
中編であるこの記事では、フカヒレ短歌から取り出せる情報と、それに最低限必要な知識を見極めることに終始してきた。
後編では、今度こそ、わたしがフカヒレ短歌を好きになれない要因を見極めよう。おそらく〈語り手〉の問題になると思う。
後編は近く公開する…予定。
※注
注1:一首の短歌の「外」に該当するものは多い。その一首の題や詞書、連作や歌集の題、歌集の挿絵、同じ作者の別の短歌…などなど、いくらでも挙げられる。いわゆる社会常識だって、短歌の「外」にあって短歌を読み解くのに必要な知識だ。
注2:実際の順序は逆だ。わたしは「フカヒレ短歌の言葉はこういう内容として読み解ける」というある程度の予断を持っている。その予断から出発して「フカヒレ短歌の内容を適切に読み解くにはこういう知識が必要だろうな」と考えた。
注3:現代短歌の重要な歌人のひとりに斉藤斎藤がいる。この人の「斎藤」は本人の言だと本名らしいが、姓に類似した例外的な名として装われている(ようにわたしには見える)。フカヒレ短歌の「斎藤」が斉藤斎藤の「斎藤」部分にあたると解釈する余地はある。けれども、読解に最低限必要な知識とも言えまい。
注4:いわゆる三人称の視点で書かれた地の文の場合。むかしからよく言われた現象で、次のリンク先の論文も取り上げている。高田知波「姓と性:近代文学における名前とジェンダー」『駒澤國文』(47)、2010年。
注5:日本語で読める説明としては、以下の2つの記事が詳しめ。