【谷間の歌会】茄子とサビアン 蟹座11度〜12度
「サビアンシンボルとその解釈にリンクする季語や和歌」を好き勝手に発表する、サビアン研究会「谷間・オブ・サビアン」の月一歌会の最初のお題「茄子」とサビアンについての個人的あれこれ。
※最初にお断りしておきますが、私は俳句や短歌等について全くの無知です※
◆茄子
夏 蟹座期間(6/22〜7/22)の季語
◆対象サビアン①
蟹座11 度:道化師が有名人を風刺する(A clown making grimaces.)
◆対抗サビアン
山羊座11度:キジの大きな群れ(A large group of pheasants.)
◆鏡像(対)サビアン
蟹座20度:セレナーデを歌うゴンドラ乗り(Gondoliers in a serenade.)
◆ドデカテモリー
蠍座
【この度数のポイント】
・月並みを破る度数
・本音を言うことのむずかしさ
・自分自身を笑うシュールなコント
私がこの度数っぽいなと思ったのは、唯一句集を所持している尾崎放哉のこの一句。
「茄子もいできてぎしぎし洗ふ」 尾崎放哉
茄子は好き嫌いの分かれる食材だと思っていて、嫌いという人の理由に多いのが、あの独特の「きしきし」という食感だと思う(私は好き)。
実際に茄子を洗うときもキュッキュッというような独特の感触があるが、尾崎放哉のこの「ぎしぎし」という不穏で不器用な擬音が、この度数でいう “皮肉めいた本音のオト” に聞こえる。
自分も蟹座ですが、蟹座には「自分の失敗を笑い話にする」ところがあると思っていて、それはある意味皮肉っぽくも、蟹座にとっては「笑う」という行為がとても大切で、相手を喜ばせるためなら失敗談であろうが恥ずかしい話であろうが笑い話として消化して差し出し、共有することで満足しているのかもしれない。
あとは、正確には赤茄子なのでトマトなんですが…
「赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり」 斎藤茂吉
この斎藤茂吉の「腐った赤茄子を眺めている」様子が、皮肉めいたことでしか本音を言えない自分を風刺しているような、そんなことにふとした瞬間に気づいてしまう、哀愁にも似た衝動を感じたのでこれも挙げておきます。
◆ 対象サビアン②
蟹座12 度:聖なる後光が差している赤ん坊をあやす母親(A Chinese woman nursing a baby with a message.)
◆対抗サビアン
山羊座12度:講義をする自然の学徒(A student of nature lecturing.)
◆鏡像(対)サビアン
蟹座19度:結婚の儀式を遂行する司祭(A priest performing a marriage ceremony.)
◆ドデカテモリー
蠍座
【この度数のポイント】
・一旦忘れることで見えてくるもの
・忘れ物を届けてあげる母親的な気づき
・小さな可能性の芽を育てる
この度数には種田山頭火の俳句を選びました。
「夕立が洗つていつた茄子をもぐ」 種田山頭火
「夕立が洗っていった」ばかりの茄子は想像するだけでもとても瑞々しく、大量の水で洗われたことにより泥をかぶっていた茄子が生まれ変わったような、まるで生まれたての赤ちゃんのような生命力を感じました。
ここには11度の「茄子」のような皮肉っぽさはなく、茄子そのものが持つ等身大のポテンシャル。
もいだ茄子を、シンプルに焼きなすにして食べたい。