一旦あきらめると見えてくるものがある
思っていても出来ないことはある。
思っていることを含めて自分なのか、
思っていることは抜きにしたのが自分なのか。
自分というものの定義。悩ましいところだ。
もっともっとと、どこかしら追い求めるものはいつまでもあって、
いざ「さあ、今のあなたが完成形ですよ」と言われると
えぇぇぇ・・・・と困った気分になる。
いつだって、”今”が完成形でしかない。次の”今”にはアップデートしているかもしれないけど、今は今。それ以上でもそれ以下でもない。その事実に困ったり焦ったりする気持ちが芽生えるなら、それはきっと『ないものねだり』をしているんだろうな。そんな状態で次の今を過ごしても、ないものねだりの土台では足元がぬかるんで進めない。行っても行っても、ないものねだりにしかならないんだよな。
「こんな自分が完成形じゃあ困るわ」って思ってしまった。でもその事実は急には変わらない。なので大人しく諦めてみることにした。あーあ。これが完成形なんじゃん。。。
ちゃんとがっかりしてみたら、なんだか思うより悪くなかった。そっか、そっか。ないものねだり、してるつもりはなかったけれど、手元にないものをひたすら求めていたかもしれないなあ。心の奥底で、焦っていたような、抱え込んだブラックホールのような穴があったのに気が付いた。あらまあ、こんな穴、ふさがるはずがないわ。
未完成なままの自分が完成形なのだとストンと腹をくくってみたら、気になっていたあれこれがスゥっと消えてった。
ん?何にこだわっていたんだっけ。
なんだかあまり大切じゃないもの、どうでもいいようなことに、気持ちが囚われていた気がする。なあんだ。未完成の完成形な私でいいんじゃん。
そんな風に思えたら、あらまあ不思議。周りの人たちもみんな、未完成なままの完成形で生きているんだなあって思えてきた。立派な完成形の人たちが、立派な完成形の世界で生きている。無意識のうちに、そう思っていたのだ。
けれど実際は、未完成なままの完成形の人がいるだけ。そうやって世界を見てみると、未完成の完成形な人たちが一緒に未完成の世界を作って生きていて、なんてあやふやな、なんて柔らかい、なんて愛しい世界…。
あー、頑張んなきゃって生きていたんだなあ。なんかよくわからない四角形の中にキチンと納まろうとしてたのかなあ。無理じゃーん。
柔らかいまま、あやふやなまま、ゆるりゆるり。このまんまで行こう。楽しくなって来た。
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