見出し画像

腰の骨5本折って気付いた【マイストーリー②】~夢実現の代償と使命~






『やりたいことをやったら救急搬送2回&集中治療室を経てわかった夢を実現するのに必要なこと』



「いやいや何言ってるの?うそでしょ。そんな馬鹿なこといわないでよ。」

マイストーリー①

当時25歳。新卒で入社した大手旅行会社を退職して、東京の英会話学校の営業職についていたときのこと。朝8時から夜22時まで拘束されその後も飲み会という名の演歌の練習に毎晩付き合わされ帰宅すると深夜3時という日々で心身ともに疲労困憊。しかもこの職場、恐ろしいことに9割女性の20代なのだ。社長を崇拝しまるで宗教のようだった。


そんな時に父が危篤との連絡を受けた。あまりに急な出来事にすぐに受け入れられなかった。


我に返って思った。私何してるんだ?親が危篤だというのに、やりたくもない仕事で帰れない?上司に話したら皆家族が亡くなっても仕事を優先したとか。私にとっては美談でもなんでもなく、とにかくすぐに辞めてでも帰りたかった。親の死に目に合えずに後悔するのは私だ。この職場の人達と一生分かち合うことはないと思った。



生きていたらなんだってできる!

結局帰省できたものの、長女らしい看病もできぬまま父は他界した。55歳若すぎる死だった。『親孝行、したいときに 親はなし』思い知った人生のどん底。もちろんその英会話学校の営業職もそのまま退職した。


このまま泣いてばかりもいられない!

そうだ私はプロスノーボーダーになるんだ!もしくはスノーボードを教える仕事がしたいんだった!そう、私は青森県の八甲田の近くで生まれ育った根っからの雪国っ子。小中高はスキー大会に出ていたし、高校からはスノーボートも始めていた。大学時代にはスポーツ店でバイトし、冬はスノーボードコーナーを担当していた。当時はまだスキーヤーが多くスノーボーダーはレアな時代である。

新潟県の妙高で行われたスノーボードキャンプに1週間参加。
一番成長した人に送られる賞をGET。その名も『大爆笑ガール♡』父の他界から1ヶ月でその称号やばいでしょ!やっぱり私はできる子!そしてムードメーカーなんだ♡私は悲しみを乗り越え、自身を取り戻した瞬間だった。行動すれば絶対になにかが変わるのだ!!



年間80回位雪山滑走。一日にスキー場をはしごすることも度々。
15m位の大きなジャンプ台を飛んで回って、人工物をこすったりするスロープスタイル。冬は限られているため、夏は、SK8(スケートボード)や、室内スキー場に遠征、ウォータージャンプ(芝生を滑って水に飛び込む競技)等とにかく横乗り生活。当時はまだ技をできる女性が東北には少なかった時代である。

そんな中、ウォータージャンプ後、傷口から脳にウィルスがまわって髄膜炎になり集中治療室。
連絡してもないのに家族が青森から仙台へ駆けつけてくれたが、
面会時も家族はマスクに手袋になんだか白装束、、、いまでいう防護服。
その姿にさすがに私は本当に危ないんじゃないかと焦った。



さらにその半年後、

スノーボード練習中、ジャンプ台から飛び出した瞬間にピキっといき、
空中に出た時にはすでに体勢を立て直せる状態ではなく、そのまま数m下のアイスバーンにたたきつけられる。 
腰の骨を5本折る大怪我をして救急車で運ばれ、
数ミリずれていたら下半身不随になるほどの大惨事だった。




『母は言う、好きなことだからここまでできてるんでしょ?』


私は子供の頃から、勉強しなさいとか○○しなさいと言われたことはない。
それと同時になにか始めたり、やろうとしていることを否定された記憶もない。それは両親が私をいつも信じて、自発的に動くように育ててくれたからだと今自分が親になってわかった。


父の死から1年以内に命に関わる大きな病気と救急搬送される大怪我を2回。さすがに母には心配ばかりかけて申し訳ない気持ちと情けなさでいっぱいだった。


本気になり地元の草大会では入賞常連、優勝経験も数回。週末ボーダーながら、ありがたいことにショップからスポンサーのお話がいただけるところまでなった。

本当にがむしゃらだった。生きていればなんでもできる!本気でそう思っていた。でも無我夢中なあまり、私は自分のキャパを見誤ってしまった。過信していたのだ。

下半身になにも感じない恐怖は、家族やたくさんの仲間に支えられ乗り越え、少しずつ自分のカラダと向き合うようになる。
今思えば、あの頃にヨガをしてたら違ったんじゃないかなと本気で思っている。時に客観的にみること、カラダを休めることの大切さを思い知った経験だった。



『私がプロスノーボーダーになれなかった理由』



怪我もある。そして年もある。
でも、一番は『有言』しなかった、いや、有言できなかったこと。
もっとうまくなりたい!あの技を覚えたい!そんなセリフはよく言っていた。言霊通りになった。
でも、プロになりたい、優勝したいとは言えなかった。
言ってなれなかったら恥ずかしいとか。謙遜したり。不言実行がかっこいいと思ってたのだ、その頃は。だから、正式ななり方の近道がわかっていなかったし、情報も入ってこなかった。

声を大にして言う。言葉は声に出さなきゃ伝わらないよー!
有言実行こそかっこいい!!おそるべし言霊♡


そしてこの頃から、モノより体験、経験を意識する生き方に変わって行きました。






『東日本大震災で気づいた私の使命』


東日本大震災を機にスノーボード熱は一気に覚めた。私の住む宮城では一番多い約1万人の方が亡くなった。押し流された車に人がいないか調査済みの赤札の山、カラスがつついた地面に人が埋まってないか自衛隊ご掘り起こす姿、テレビではなく、直接目の当たりにした。

幸い私は職場(新卒入社して一度辞めた旅行会社に出戻り)にいて無事だったが、仙台空港が津波でやられてしまったので業務体系が変わった。震災復興に関わる宿への営業、そんな中東北に来てくれる外国人をお客様とする訪日部署にて業務。

タイ、台湾、韓国、中国、たくさんの国の方が福島原発の脅威がある中で東北に来てくれた。皆来てお金を使って応援してくれた。外国の方々に東北を案内している中で気づいた私の使命。

それは、国民を代表して感謝を伝えること。

東北への全国各地、世界中からの支援。
感謝をしてる人はたくさんいる。
でもそれを伝えられる人、伝えられる機会がある人は少ない。

だからこそ、私がご一緒した海外からのお客様にだけでも、
最高のおもてなしで、期待以上の感動を!


と、各国の言葉の勉強はもちろん、
侍衣装で登場したり、民族衣装でお迎えしたり、
武将になって寸劇みせなり、、、
もはやパフォーマーになっていた(笑)

添乗中寝る間を惜しんで夜中に撮った写真で動画を作って、
バスで別れの挨拶する時に流す。
東北のみんなからの感謝を私が代表して各国のお客様に伝えさせていただいていたつもり。
外国人の添乗では毎回別れる時に感情溢れて涙も溢れていた。

世の中の添乗員が絶対しない仕事の仕方だっただろう。
でもあれは私が初めて仕事の常識の殻を破ったマインドを、変えてくれた仕事になったのだ。


そして私は東北と海外を心でつなぎたい。東北に来てくれた外国人と東北の赤ちゃんとママが触れ合える場をつくりたい。外国人の方にとっては現地の生の交流ができ、ママにとっては赤ちゃんの頃から日本にいながら多文化や多言語に触れ合わせるきっかけがあるから、言語習得にも興味がでると思った。私の最高の使命だ!と思っていた。コロナが広がるまでは…。

マイストーリー③へ続く

LINE公式はこちら♡

Instagram:おうち英語と子育てについて配信
Twitter:日々の気付いたポジティブなことを発信
stand.fm:津軽弁deしゃべらージオ 津軽弁で音声配信中

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?