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【自己作品紹介】#11 「暁の帝王学-ひとりの男の人生からみる『生きる』とは」

 じいちゃん……。俺、作家になったよ……。

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 たぶん、私はこの作品を書くために作家になったのだろう。
 この作品を書くために、ここまでの10数冊を書いてきたのだと思う。今までの読書、ライティングの勉強、ツライ想い、それらを全部込めて書ききった作品だ。

 私がじいちゃんの人生と向き合い「生きる」とは何かについて探求していく。戦争に向かっていく社会、戦争、そして高度経済成長という、激動の時代を駆け抜けたじいちゃんが何を思い、どんな意志をもって生き抜いてきたかをインタビューや手記などから紐解いていく。

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じいちゃんは逝ってしまった。

流行病が蔓延する中、たった独りで。

最後にじいちゃんに声をかけたのは、病院勤めの妻だった。
さまざまなご縁が重なり、妻が仕事をする病院に入院し、そして終末期医療を受けることとなった。

流行病の影響もあり、親族でも面会が出来ない日々が続いていた中、妻の務める病院へ入れたのは幸運だった。
だからこそ、妻だけがじいちゃんに面会ができた。

妻は、毎日の雑務に追われながらも、業務終了にあせてじいちゃんの元を訪れていた。
それは簡単な一言で終わることもあれば、手を握り「早く、一緒にお家でご飯を食べようね」といったものもあったと聞く。
このような状況においては、家族としては妻の存在が何よりも嬉しかった。

だが、世界は淡々と、静かなる残酷さをもってその事実を突きつける。

ある夏の暑い日、じいちゃんは永眠をした。
病院からの出棺時には院長を含め、多くの方がお見送りをしてくれたと聞く。
両親と妻の話しでは「ここまで多くの方に見送られる出棺はなかった」という。

その言葉に嬉しさを感じる一方、私としては何ともいいようの無い想いがこみ上げていた。
「じいちゃんは、そんな最後を望んではいなかったはずだ……」と。

私が思うに、じいちゃんが望んだのは「最後の時、家族に手を握られ、その呼吸を少なくしていく」だと。
大好きな、そして大事な人にその手を握られ、最後の時を迎える。
じいちゃんはそういった最後を望んでいたのだろうと私は思う。

なぜ、そう思うって?
私はじいちゃんから、いつも聞いていただからだ。
じいちゃんは、口煩く「意識高くあれ」「しゃんとしろ」と私にいい続けてきた。
根本は、私に「生きること」そして「気高さ」を説いていたのだと。

だが、その背後には常に寂しさがあったように思う。
それを覆い隠すため「意識高くあれ」や「しゃんとする」と言い続けていたとさえ感じる。
 

しかし、そんな私の考えを述べたところで、既に本人はもういない。
そして、私はじいちゃんの「好きにしなさい」という最後の言葉に悩んでいた。

「好きにしなさい」とは、一体なんなのであろうか?
娯楽に、肉欲に、金銭欲に溺れることなのであろうか?
私がじいちゃんから学んできた「帝王学」には、そんなことは一つも無かった。

「好きにしなさい」とは一体なんなのだ?
「私らしく生きる」とは一体なんなのだ?
その言葉に押しつぶされそうになりながらも、私なりの「好きに生きる」をはじめてみる。

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