新潮社版『注文の多い料理店』読了。
読み終わったあと、まず初めに「すごく面白い」と感じた。何故だか分からないけどとても爽やか(?)な読後感があった。
何が爽やかだったのかを考えてみる。
(爽やか、も表現としてヒットしてない気がする。でもとても近い。)
『実際の世界は不条理であまり清くない』ことが正直に書かれていて、それには世の中の定石に従わなければままならない自分への悲しみと家族への憐れみ、そんな純朴さとは真逆で欲に目がくらんでそれを利用して食い潰すやつ(前者を書くためには後者が必要)、そのハイブリッドみたいなやつ等…
私が衝撃を受けたのは『なめとこ山の熊』で、後半辺りに著者自身が作家であることを恨みながら書いていたのがすごく印象に残っている。
作家である以上書きたいことを書くためには書きたくないけど書かねばらないことを避けて通ることは出来ないんだろうけど、そこまでせねばならない職業とは一体何なのだろうか。
小十郎を助けるために書いているのではなく自分を救うために書いているため小十郎を理不尽な状況から救い出すことが出来ないというのは悲しい運命だなと思った。
でも小十郎は清らかな最後を迎えることができて、そのあたりの描写が本当にこの世の最も綺麗なものだけが集まった空間のように感じて、私の持っている何かしらの汚れが全部さっぱり無くなったかのような気持ちになった。
爽やか、ではなく “澄んだ” が正確だ。
とても澄んだ心持ちがした。
『ひかりの素足』を読んでいても、「何でこんな痛辛いことばかり書くんだ」と思いながら読んでいたけど、一郎が再び目覚める頃にはそんなことすっかり無かったかのように忘れていた。不思議なことに途中感じた苦しさを読み終わりに持ち越すことなくむしろ清々しい気持ちでいられた。
本当に不思議としか言いようのない宮沢賢治の読む者を浄化する力は凄まじい。一体何なんだこれは。
きっと物事を一点の曇りなく信じることのできる非常にクリアな純朴さが読み手をこんなにも苦しくさせたり救ってしまったりもするんだろうと思う。
美しいものは怖いし狂っているという理屈が初めて分かった気がした。