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MIMMIのサーガあるいは年代記 ー19ー
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皐月(さつき)朔日(ひとひ) ―オフィーリアの二度目の恋!―
この頃、厳めしい門、高い塀や有刺鉄線で外界と隔てられた蛸薬師小路邸のさらに奥まった棟地下二階の、外から完全に遮断されて完全防諜会議室では、お婆さんを中心に会議が行われていました。議題はもちろん、蛸薬師小路家をとりまく問題のあるあらゆる環境が議題です。
この部屋は電磁波も音声も完全に外部から遮断され、その上、室内でも電子機器は一切使わず特殊な用紙に手書き資料が配られています。紙資料には一連番号が付けられ、会議後はすべて回収されます。用紙自体も水にたやすく溶ける特殊なものです。いざとなればスプリンクラーを作動させればすべて溶け、文字の痕跡も残らないという、非常に念を入れた秘密保持です。これも、数ヶ月前の盗聴事件の被害を踏まえたものでした。情報のいわば完全な無菌室です。
会議が始まってもう三十分以上経ちましたが、オフィーリアは会議どころではありません。
あの時のことがしきりに思い出されるのです。
彼女が桃子を抱えて絨毯に恵方巻のようにくるまれたのは、桃子が暴れ叫ばないようにする警備上の目的があったのですが、思い出すたびに、頬が熱くなってしまうのでした。桃子を押し倒し抱え込んだ際の感触です。桃子のすべすべした肌の柔らかさと肌理の細かさ……それにあのかぐわしい香り。
かつては桃子の家庭教師兼身辺護衛で、桃子が長ずるに及んでほとんど教えることが尽きると身辺護衛兼秘書のような関係に変わってきて、前々は桃子を幼い子供、または歳の離れた妹のように思っていたのですが、桃子が十六歳になると立派な大人の女性、少なくとも大人の女性のとば口に佇でいるように見方が変わってきていました。今では単に歳下の美しい女性として桃子を眺めている自分をオフェーリアは自覚しています。
あの朝のことをオフィーリアは繰り返し思い出すのです。恵方巻事件よりずっと前、あの卑劣な盗聴事件よりも前だったかもしれません。
たいそうな過去でもないのに、世の中もこの大邸宅の中も平穏で、日ごとに新鮮な驚きと爽やかな旭陽に溢れていた、今から思うと楽園を夢見心地でさまよい歩いていたような時代だったかもしれません。それに桃子自身も機嫌が善くて、中指を立てるハンドサインや、あの禁じられた英語の四文字単語を頻繁に口走ることがずっと少なかったのです。
朝、オフィーリアが桃子の寝室の隣部屋の洗面台で何気なく鏡に映った自分の睫がちょっと変な形に歪んでいたので、目を瞑って小指で睫をいじっていた時のことでした。
「おはよう! お姉様! オフィーリア」と言って、桃子が両腰に両手を回し、唇を耳元に近づけました。
「大好きよ、オフィーリア」と、彼女囁きます。
オフィーリアは一瞬、何が起きたのかわかりませんでした。身辺護衛という平素の習性から、他人に不用意に背後を取られたことに恥じ、反撃しようと身体が動きかけている途中で、抱きついてきたのが桃子だと判断すると警戒を緩めていました。次に、無上に嬉しくなりました。
「いつもありがとう」という桃子のつぶやきは、耳朶への熱い吐息に変わったように、オフィーリアは感じました。腰にまわされた桃子の両腕は力がこもり、胸を背に押しつけられています。
そして、オフィーリアは戸惑います。最後には、思考はホワイト・ノーズのように全世界が意味を失います。ですが身体はビクッンと波打っていました。
長い時間のように彼女は感じましたが、ほんの数秒間のことだったのでしょう。オフィーリアは目を開き、鏡越しに桃子を眺めました。桃子は彼女の肩に頬を預けて甘えています。先ほどいじっていた睫は逆まつげになって目に刺さります。
「桃子お嬢様、止してください」彼女は務めて冷淡に口にしたつもりですが、動揺しているのは自覚していました。
それに続いての、桃子との恵方巻事件です。
思い出すと、妙な気持ちになり体の芯が炭火の熾りのようになってしまうのです。もう一度桃子様とあのような状態になりたい。今度は、もっと静かなところで、もっともっと長く……これは恋かもしれない。
と同時に、ある違和感も思い起こすのでした。それは桃子と頬を密着させていた数十秒の間に、オフィーリアの頬に固くチクチクする違和感があったのです。
それが何だったのか、彼女は今朝になって思い至ったのです。そう、オフィーリアが小川に掛かる小枝を折ろうとして落ちる前、あの愛おしい、狂ってしまわれたかつての恋人と口づけを交わした際に、頬に当たった髭剃り痕にそっくりなことを。
『それも髭剃り後、少し伸びかけた硬くて太い顎髭に違いない。あのとき、桃子には尻尾は生えていなかったのに……髭が生えてた!……なんて誰にも言えない』
この二つの理由が彼女をふだんよりも無口にさせていました。
尼寺へ行け、などと非情なことをおっしゃったあの方よりも、愛しい桃子様……ああ。恥ずかしくてとうてい口にできません。
そう、あの王子様も「弱き者よ、汝の名は女なり」と仰っていたっけ……。
『だけど、だけど……。お嬢様のあの頬の髭剃り痕のような感触は……いったい?』
オフィーリアは、悩み、ひとり考え込んでいました。
桃子のことばかりを思っていて、ふと頬杖をついた肘が揺れ、ボールペンを床に落とすと、音が外部の音を遮断した部屋の中に、バケツを蹴り倒したように大仰に響きわたり、オフィーリア以外の者は耳をそばだててしましました。
エリカがたしなめるような目つきを投げかけます。
(まだまだつづきますよ)
冒頭の画像は、二度目の恋のオフィーリア像イメージ