三島由紀夫の恩賜の時計について
三島由紀夫は、1944(昭和19)年、学習院高等科を卒業するにあたり「恩賜の時計」を拝受した。「恩賜の時計」は、陸軍士官学校、陸軍大学校、海軍兵学校、海軍大学校、学習院等官立学校の最優秀卒業者1名乃至数名に記念品が天皇から下賜される制度あるいは慣行である(慣行と表現したのは、直接の根拠法令を知らないからである)。
彼の前半生における大きな誉れの一つであり、半自伝”的”小説「仮面の告白」のなかでも、学習院院長である海軍大将と車に同乗して宮中にお礼言上に行く場面が書かれている。小説であるから、学習院は「高等学校」(旧制)と書き改められている。
この記述は、三島が兵庫県加古川での入隊検査の時、軍医の誤診により即時帰郷が命ぜられた事実と同様に、少しの改変があったとしても彼の前半生におきた事実だったのではないか。
話は少し横にそれるが、彼は卒業式で天皇から銀時計を直接“親授”されたのでなく、御名代の皇族か差配された宮内省高官から、拝受されたものと思われる。また、宮中へのお礼の参拝についても記帳のみか、宮内省官僚への口頭のお礼であっただろう。
そもそも、恩賜の記念品、銀時計、軍刀、短剣等々を下賜する官立学校は多数にわたることから、天皇が親臨するのが原則としても、上ご一人では対応しきれるはずもなく、戦争末期のこの時期、戦争、内政指導に多忙を極めて学生・生徒への下賜などにかまっておられない状況だったのではなかろうか。
天皇から臣民に記念品を下賜する制度あるいは慣行は、明治期以降広く行われ、とりわけ帝国大学、陸士、海兵、陸軍主計学校、陸軍大学校、海軍大学校、学習院高等科など官立学校成績優秀者に銀時計、軍刀、短刀、拳銃、製図道具などさまざまな記念品が下賜されたことは有名である。
このうち文部省所管の帝大については1918(大正7)年をもって恩賜制度は廃止された。しかしながら、陸、海軍省及び宮内省が所管する官立学校においては、その後も成績優秀者に対する恩師制度は存続した。従って、宮内省所管の学習院高等科においては昭和19年時点で銀時計の下賜がおこなわれた。
なお、官立学校以外での下賜については、広く臣民を対象とし、慰労をはじめとする何らかの目的で、煙草、日本酒、菓子等の嗜好品が下賜されていた。こちらの制度ないし慣行は戦後現憲法下においても存続し、皇居清掃団体などに煙草(今はない)又は菓子が贈られている。
ところで、1918(大正7)年を最後とする帝大における恩賜の銀時計廃止理由については、「東京大学百年史」などの資料から当時大学改革が行われ恩賜の銀時計、卒業証書等に変更があったと窺われるが、その改革の内容については具体性に欠ける記事しか閲覧できなかった。この年は「大学令」(大正7年12月6日勅令第388号)公布の年であることから、施行の1919年以降、同勅令に基づき帝国大学になんらかの小規模改革が行われたと推認できる。同勅令の影響については、日本近代史の通史などにおいて、従前法制上私立、公立等の専門学校等であったものが、大学として正式に認可され予科、修学年数等が統一されたことが強調されるところである。反面、帝国大学における影響及びそれを受けた小規模な改革については、教育史的価値が著しく低くほとんど言及されていない潮流があるのではないか。
蛇足ではあるが、大学令の対象学校は、文部省所管の諸学校である。また、同勅令で大学となった私立大学等は、「大学令による大学」として旧帝大と区別されてきた。
以下はまったくの余談であるが、恩賜の下賜品の取り扱いについていまでも強く記憶に残っている記事があった。
戦中、陸海軍兵士等に広く下賜された恩賜の煙草は、フィルターなしの両切りで片方に菊花紋が印されていた。わたしが昔読んだ従軍記かなにかで、この恩賜の煙草をどちらから吸うか、戦地の将校のあいだで論争となったらしい。
結論は、菊花紋への崇敬という当時の常識に反して吸い口側でなく火をつける側で落ち着いたとのこと。
その理由は、菊花紋を吸い口側にもってくると、吸い殻に菊花紋が残る。吸い殻を地面に捨てるから、菊花紋を知らずに踏みつけ不敬になる。
この小さな挿話は広い戦域のうちの一部隊のもので、一般化はできないもものの、21世紀に生きるわたしにとっては新鮮なものであった(菊花紋を燃やしても踏みつけても不敬になるやろ。ちょっとした不敬のちがいだけやんかwww)。
了