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MIMMIのサーガあるいは年代記 ―35―
第 三 章
血まみれの桃子(8)
その後の『走れヒロコー! メロスになれ!』
お屋敷へ伝令にでたヒロコーは一体どうなったのでしょうか?
大型バンから放り出されると、全力で走り出しました。道順のことなど何も考えず。 目の前の道路をとにかく走ったのです。ですがそれは十五、六分だけです。百パーセントの湿度、霧雨、発汗、走りにくい革製ワークブーツのせいで、もうはや顎を出し、荒い息を吐きながらとぼとぼと歩き出しました。
自決用に渡されたピストルは、とっくに田圃の中に投げ捨ててしまい、今頃は蛙のオモチャになっています。重くて走る邪魔だったからです。
雨と湿度はいくらでもあるのに、のどがかわいてしかたありません。もう投げ出して休みたいのですが、桃子に見つめられた恐怖がそうはさせてくれませんでした。
自動販売機で何か買って飲もうと思っても、財布はなく、自販機そのものがみあたらいのでした。
靴に水が入り、蒸れて、皮膚が破れて足を引きずっています。命じられた期限の一時間の残り半分をすでに切っています。メロスになれないことは確かです。
彼は自分の不幸を呪いましたが、いまさらどうしようもありません。
「あの連中ときたら、戦争ボケしやがって。熱帯のジャングルか中東の砂漠やウクライナの大平原にでもいると思ってる。ここは奈良県の真ん中だぞ。人にメロスになれだの、英雄のヒロコーなんて言いやがって。狂ってやがる。まあ、一番狂ってるのは桃子お嬢さまだけどな!」と、大声で悪態をつきながら歩いて行きます。
……
「どうしたのですか? ずぶ濡れになって風邪をひきますよ。しばらくウチで雨宿りをしたら。それとも傘をかしましょうか」
農道から横に二十メートルばかりそれたところにある民家の一軒から、女性が彼に声をかけてくれました。
「それより何か飲むものをくださーい。のどがかわいて死にそー」とヒロコーが大声をあげると。その中年女性は、大きく頷いて手招きしました。
玄関の軒下で折りたたみ椅子に座り、よく冷えた『お~ぃ、お茶』をふる舞われました。びしょ濡れのこの巨体を屋内にいれると、後始末が大変なのです。
ヒロコーが何度もお代わりするので、中年女性は二リットルペットボトルのまま持ってきました。
一本ほとんどを飲み尽くして、湿った煙草で一服すると、やっと彼も落ち着き呼吸も整いました。ですが、もう動くのが嫌になってしまいました。ずぶ濡れの上に、両足裏の皮がむけているのですから。
「おばさん、電話を貸してください」
「おばさんって、こんなうら若い処女をつかまえて」と吉本定番のような寒いギャグが返ってきて、ヒロコーは大笑いします。
「チゲーネーエわ。ごめんなさい」
「それがね。携帯電話が朝から繋がらないの。AUもドコモもソフバンも楽天も全部ダメみたいなの。固定電話なら通じるけど」と、自分のギャグが笑いをとったことに気をよくして、彼女はヒロコーに電話を貸す気になっていました。
『あいつらは、妨害電波だの盗聴とか散々言ってたけど、昔からの固定電話を忘れてやがる。襲ってきた奴らも同じかもしれないな。固定なら大丈夫じゃないかな』と、ヒロコーは考えました。
「ぜひ貸してください。俺は蛸薬師小路家の従業員ですから、怪しい者じゃないです。お礼はあとでいくらでもします」
自称”うら若い処女”のおばさんは、固定電話のコードを延ばして受話器をもってきました。「子機の調子が悪いもんだから……」と、断りをいれて。
電話はすぐ繋がりました。メキシコ人たちの留守番の責任者サンチョに回されます。ヒロコーは手短に状況を説明し、屋敷の周辺が監視、ジャミングされているから警戒するよう、伝言は自分が直接届けると、だけ一方的に告げると電話を切りました。彼もエリカたちに、盗聴、盗聴を言い含められていたので、固定電話でありながら曖昧な表現しかしていません。
「おばさん。いや違った、お嬢さん。あの軽トラを貸していただけませんか。あとでお礼はいくらでもします。蛸薬師小路家から、ベントレーでもベンツでも何でも替わりの車もってきますよ」と、シャッターが上がった車庫の車を指さしました。
「貸すぐらいならいいけど。代車はフェラーリにして。後ろの納屋にフェラーリのコレクションを集めてるんで」と、冗談かどうか分からない言葉を付け加えて、軽四のキーをポケットから取り出して渡しました。
ヒロコーは軽トラを急発進させ、玄関前の砂利道で急停車させました。
「お嬢さん。ここは何処ですか?」と、一番肝心なことを今になって尋ねました。おばさんが現住所を答えると、彼はアクセルをいっぱいに踏み込みました。
蛸薬師小路邸とまったく逆の方向へ、これまで彼は一生懸命走っていたのでした。
定められた期限の一時間はとっくに過ぎていました。ここから遠く離れた丘陵で、桃子たちがやけっぱちの白兵突撃に失敗し、再度の総攻撃をしのいでいる最中でした。
『急げヒロコー! メロスになれ!』頭の芯に桃子の声が再び響いていました。
(つづく)
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