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古都・広州の面影 《南越王宮博物館》

広州は、2000年以上の歴史を持つ都市です。

「食は広州にあり」と食文化にスポットが当たりがちな広州観光ですが、実は市内には、中国の歴史に関わる多くのスポットが点在しています。ここでは、気まぐれに広州の歴史観光スポットを紹介したいと思います。

なお、内容は、個人的な意見や感想を交えてまとめておりますので、ご了承ください。

1. 秦の始皇帝と南越王

広州一帯は、かつて越人が暮らす地域でした。北方の中原とは異なる言語と文化を持った、異なる民族です。転機は、秦の始皇帝が紀元前221年に中国を統一したことで訪れます。始皇帝は、任囂を主将、趙佗を副将に据えて、広州に侵攻。前214年には広州を含む嶺南地方を平定したのです。これにより、広州に漢人の文化が流れ込むことになりました。

ところが、その4年後、前210年に始皇帝が病没。前209年に陳勝・呉広の乱が勃発すると、中国全土は大きな混乱に陥ります。そんな中、広州を治めていた任囂が病没。前208年、趙佗が後を継ぐ事になります。更に、前206年に秦王朝が滅亡すると、前204年、趙佗は中国南部からベトナム北部にかかるエリアを「南越国」として建国しました。広州は、この時、南越国の首都が置かれました。

中国全土では、前202年に劉邦が漢王朝を打ち立てますが、国内が疲弊していたため内政の充実を優先し、南越国に攻め込むことなく外交関係を築く道を選びます。趙佗は、前196年に漢王朝に帰順し、南越王として漢王朝の冊封体制に組み込まれることになります。つまり、漢王朝の権威を受け入れることで、南越国の独立を維持したのです。南越国は、その後、漢王朝への帰属と対抗を繰り返すことになります。

さて、南越国となった趙佗の国づくりは、秦王朝の政治制度を踏襲したような形で行われました。また、文化や経済面では、鉄製の農具を使った農業が始められ、青銅器の使用が増えます。漢字の使用が認められ、貨幣経済が浸透します。未開の地だった広州の地は、南越国の王都として整備され、それまでの漢民族文化の影響を大きく受けた都市として生まれ変わりました。

 このように、始皇帝が中国を統一したことをきっかけに、中国全土が共通のルールや文化でまとまり始めた頃、広州は「都市」ではなく、「首都」として都市建設されることになりました。そしてこれは、その後の2200年に及ぶ広州市の歴史において、大きなターニングポイントとなったのです。

2.南越王宮博物館とは

そして、今回紹介する「南越王宮博物館」です。南越王宮博物館は、南越国の宮殿や庭園の遺跡になります。発見されたのは比較的最近で1995年ですが、翌96年には全国重点文物保護単位として登録され、2012年には「中国世界文化財候補」にも選ばれるほど考古学的価値の高い遺跡として評価されています。

入口を進むと、すぐに目の前に当時の庭園跡が広がります。見所は、その庭園の造りの精巧さです。2000年前の技術で造られた庭園は、石造の水路に水を通して池を造り、そこに船を浮かべていたと言います。

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そこには様々な工夫が凝らされています。水の流れは自然の渓流を模して造られています。大きさが計算され切り出された石材を使い造られた水路の底には、わざと大きな丸い石を置いて、本来なら静かに流れるはずの水路に動きを生んでいます。水路がカーブを描くところでは、外側を垂直に、内側に傾斜をつけて設計されており、水流が一定に保たれ、更に渦や水の音を生み出す仕組みが用いられています。

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更に、当時は庭園の池で亀を飼っていたようで、亀が出入りするための入口が設けられています。また、急流部分をあえて広げて深めに掘り、水の流れを減速させるとともに、泥や砂を沈澱させ、亀が住みやすい環境を作っています。

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驚くのは、その排水システムです。雨が降ると、敷き詰められた煉瓦や丸石の隙間から染み込んだ水が排水用の水路に流れ込みます。地表に設けられた水路は、地下に埋設された暗渠に繋がっています。更にその先には、排水用の井戸が待ち受けており、一旦井戸に流れ込んだ水は、余計な砂や泥を井戸の下部に沈殿させ、上部のきれいな水の部分だけを川に排水する仕組みになっています。これは、暗渠が砂や泥で詰まってしまうことを防いでいるということです。更に、その暗渠も、筒状の陶器を繋げる設計になっており、これは、暗渠が途中で破損したとしても、全体ではなく部分的に交換するだけで修理が行えるような工夫がされています。

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また、この南越王宮博物館は、広州の中心地である北京路の入り口付近にあります。北京路は、広州が都市となって以来、ずっと大通りとして賑わってきたところです。つまり南越王宮博物館のある位置は、歴代都市の中心を担ってきた場所になります。従って遺跡には、南越国時代の庭園の上に歴代の遺構が重ねられて建設されています。それを如実に表しているのは、そこに残された井戸の跡で、南越国時代の井戸から、それぞれの時代に掘られた井戸の跡が一つの場所で見ることができます。

3.感想

中国は長い歴史を持つ国ですので、旅行に行くと、各地で数千年前の世界に触れることができます。それは広州も例外ではありません。ただ、広州の歴史的遺跡というとあまり有名ではなく、「南越国」と聞いてもピンとこない人がほとんどではないでしょうか?

しかし、ここの面白いところは、劉邦が漢王朝を打ち立てた頃、中原文化の影響を受けながら南の広州で栄えた南越国の様子を知ることで、当時の中国人の暮らしを想像できる事にあります。保存状態がよく、当時の宮廷の様子をありありと伝える南越王宮博物館は、2000年前の中国の技術の高さや生活の豊かさを今に伝えてくれています。

広州という街は、2000年間中心地が変わらずに栄えてきたという特殊な歴史を持っています。中国の1級都市というと、上海、北京、深圳、広州という順番になりますが、都市が栄えてきた歴史の長さで言えば、圧倒的に広州が1番です。遺跡に展示されている土の層には、それぞれの時代の区分が示されています。じっくり眺めては、秦の始皇帝が中国を統一してから2200年の間に中国が辿った様々な歴史の数々を思い浮かべ、時間を忘れてしまいます。

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なお、福岡は、奴国が金印を授かった西暦57年から歴史書に登場します。福岡には、弥生時代の遺跡が多く残されている地域であり、奴国から今につながる2000年の歴史に思いを馳せることができる、日本でも指折りの歴史ある地域です。そう思って、この博物館に行くのですが、いつも完全に圧倒されます。果たして、奴国はどんな国だったのか、当時の洛陽に渡った使者は、高度な技術が詰め込まれた精巧な宮殿を見てどんな感想を持ったのか…。同時代に存在した南越国の宮殿跡を見ていると、そんなことすら考えてしまいます。

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歴史好きな人には見る価値のある場所だと思います。
広州で観光される際には、是非足を伸ばしてみてください!

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《 ライチ局長の勝手にチャイナ!vol.16 》

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