代表取締役に就任した僕がみんなと交わした一つの約束
先日、側島製罐株式会社の代表取締役に就任しました。3月初旬に「もう代表という肩の荷を下ろしたい」と先代からの強い要望もあり、父親が70歳になることや自分が家業に入って3年経過したことなどを鑑みて、このタイミングで自分が代表に就任することになりました。先代は取締役会長となり、ボードメンバーとしては残りつつ代表ではなくなります。
せっかく代表就任なので決意表明でも書くかなと思ったのですが、そちらは上記の通りプレスリリースを出してるので割愛して、今回は代表就任に際して、会社のみんなと一つ約束したこととその背景について書いてみます。
”ひとりの人間”として共に働きたいという僕の願い
今回の代表取締役の交代を機に、側島製罐からは「社長」という役職を無くしました。僕が会社の代表就任挨拶でみんなにお願いしたのは、会社の中ではもう「社長」という言葉で呼ぶことはないようにしてほしい、ということでした。今まで通り僕のことは「たかやくん」「たかやさん」と呼んでもらうことにしています。
一般的には「代表取締役」と「社長」の差分が認識されていないかもしれないの念のため補足しておくと、「代表取締役」は会社法で定められている法律上の言葉で、「社長」は課長や係長などと同じ社内で自由に決められる役職の名前です。今回はこの後者の「社長」という役職を無くしたというわけです。この背景には、元々は会社内で「社長とそれ以外の人」というヒエラルキー的で共依存的な関係性が形成されてしまっていたことと、その固定観念を無くすべく自分がこの三年間平社員という立場で旗振りを続けてきたことがあります。代表取締役になったからといっても、僕自身の役割や立ち位置は今までとほとんど変わることはありません。全方位的に関わって大きな旗を振ったり実務的な仕組みをつくったりという役割は続けつつも、それは役職に起因するものではなくあくまでもチームの一員としてであり、会社のみんなと同じく一人の人間として事業に携わっていきたいという僕の強い願いが根底にあります。
”経営者は孤独”なんて美談は終わりにしたい
世間一般での偏った通念も悪さをして、中小企業では「社長」という言葉に天界的なパワーが不必要に内包されていることが少なくないです。「社長」という存在はどこか違う世界の人で、自分たちの了見を超越して猛威を振るうものであり、時に神の声に、時に天災になるもので、逆らわずに従わなければいけないという不文律があるよう思います。弊社でも漏れなくこのような認識は跋扈していて、「社長が言ったからやらなきゃいけない」「社長がやってくれないから変わらない」といった具合に、社長や会社を主語とした諦観的で思考停止な会話が当たり前のように聞かれていました。
これは、これまでの時代で上意下達の仕組みが長年有効だったことに起因すると思っています。”指示命令”と”従順な労働”、という人間性を劣後させた金銭と労働の交換は効率は良いですが、どうやったって心に歪みが生まれます。景気が良く、大きな報酬でぼんやり心を騙すことができていた時代はそれでよかったのかもしれませんが、外発的モチベーションで金銭的価値のみをバロメーターとする労働では、その報酬とストレスの分岐点を超えたところで歪みのはけ口がその原因となる人や組織に向くのは当然です。
しかし、僕はこうした社長とそれ以外、という共依存関係にある組織の在り方がすごく嫌いです。特に自分は、製造業の経験もなければ、会社のみんなよりも斯業年数は圧倒的に少ないわけで、周りの方が卓越した領域が多い中で僕が唯我独尊的に指示命令するのは合理的ではないのですが、それを抜きにしても人と人との関係性を歪ませないと成立しない組織の建付けに疑問を感じています。「会社」とか「経営」という言葉に誤魔化されがちですが、事業は人の想いでしかつくることができないという前提を考えると、人間性を諦めることからスタートしないと成り立たないなんて根本的に何か間違っていると思います。そんな違和感に向き合わずにどこかにできた皺寄せに見てみぬふりをしながら何十年も耐えて孤独を語ったところで、僕自身はその人生を誇れる未来がくるとは一ミリも思えませんし、そんな心を消耗し続けるような負の再生産は自分の時代で終わりしたいと思っています。
創業100年の老舗企業が変わることが社会にとって大きな価値がある
「社長の言うことが間違ってるとしても従わなければいけない」「社長は従業員に何を言われても耐え忍んで孤独でなければいけない」とか、そんな考え方で仕事してても楽しくないですよね。僕はそんな主観を放棄しないと息ができないような会社で働きたくないですし、そんな人の心の死屍累々に上に自分の人生が成り立つような経営なんてもってのほかです。
そんな思想から解脱するためにも、まずは僕自身が「石川貴也」というひとりの人間であるという意味を込めて、代表交代を機に「社長」という存在を会社から無くす方針をとりました。もちろん、社長というパワーを手放すということは、これまでの経営者のように権力で誰かを指示命令で従わせたりすることができなくなるわけですが、僕はそれでいいと思っています。自分自身がまずは会社のメンバーのひとりとして、みんなとフラットに肩を並べて役割を全うする、ということから改めて始めていきたいと思っています。もちろん、これは経営者としての責任を放棄するものでは一切なく、何億円もの借金だとか指示命令を手放すリスクを一手に引き受けながらやることであり、僕なりの覚悟の証明のつもりです。その経営者としての権利を手放す覚悟があってこそ、初めて経営者は会社の中でひとりの人間としてみんなに認めて貰うことができるはずですし、「社長」という存在に依存しない自律的に働く会社にしていけると思っています。
そして、これまでの日本の社会通念にドブ漬けされてきた創業100年超えの老舗企業だからこそ、その会社が大きく変わっていくことに社会的な価値があると信じています。
「社長」という呪縛からの解放された父の笑顔
実は、僕がこんな話をする前に先代の挨拶があったのですが、こんなことを話してくれてました。
「新社長」というものは実際には無いのですがそれは置いておいて、個人的にはこの先代の話にかなり驚きました。父親はもう「社長」になって随分経つわけで、特にその社長の立場が当然という素振りだったのですが、父親も漏れなく先述したような呪縛で苦しんでいたのかなと思います。その二の舞にならないように息子を慮ってこのように話してくれたのは素直に嬉しかったです。
父親は会長になるわけなのですが、本人も「『会長』なんて呼んでほしくない(笑)」と言ってるので、これからは会社の中で名前で「ひろあきさん」と呼んでもらうことにしました。誰が最初に呼んでくれるかなあと僕は聞き耳を立てているのですが、長年「社長」と呼んでいた人の呼称を変えるのはずいぶんハードルが高いだろうと思われて、とりあえず今のところはまだ誰もその呼び方をしている気配はなさそうです(笑)。でも、先代も「社長」という肩の荷を下ろして、ようやく会社の中で初めてひとりの人間として認められることに喜びを感じてくれてるんじゃないかな。きっと、「ひろあきさん」と呼んでもらえたらすごく本人も喜ぶと思いますし、これを機に会社の中で人間同士の自然な関係性が当たり前になっていくと良いなと個人的には思っています。
おわりに
僕は自分のことを、いわゆる”普通”の人だと思っています。数年前まで凡庸なサラリーマン人生を歩んできて、事業家として卓越したビジネスセンスもなければ、超越的なスキルも現時点では持っていません。以前はそんな”普通”な自分にコンプレックスを持っていましたし、そんな取り柄のない自分が経営者になってしまっていいものなのかという不安もいっぱいでした。そんなわけで、この三年間は何とかそんな自分を変えたいという一心で、”普通”からどうしたら脱却できるかということを考え続けていた気がしています。
でも結局、そんな理想的で完璧な人になんかなれるはずもないんですよね。「社長」にならなければいけない、という強迫観念は僕の心を確実に蝕んでいたと思いますし、その皺寄せで他人との関係性を歪ませるような不本意な振舞いをしたこともたくさんありました。人は誰しも不完全で未熟だという前提を無視してしまっては、そんな歪みが無くなることはありません。だから僕は、少し肩の力を抜いて、凡庸で不完全でかっこ悪い等身大の自分を受け入れてもらうことに決めたわけです。代表取締役だってひとりの人間だということを受け入れることが、人と人とが心を通わせ合って働くことができる会社づくりの第一歩なんじゃないかなと思っています。そして、人がお互いの心を大事にできる会社になって初めて、人や社会の幸せだけにフォーカスした仕事が出来るものだと信じています。