法律以上の正しさを追い求める勇気
「出張時の移動時間を残業時間としてカウントするかどうか」
約1年前、この点について会社のスタッフとぶつかって、運用を改めたことがあります。今思い返してみると、会社のスタッフのための環境整備とその認識が不十分で、法律を盾にミニマムなルール設計をしがちだった自分の大反省なのですが、会社のルールをつくるうえで非常に重要なポイントだと気付かされた事案だったので、振り返りながら法律以上の正しさを追求する意義について書いていきたいと思います。
世の中の”常識”を基にしたルール設計
僕が以前勤めていた会社では、移動時間は原則残業に含まれませんでした。これは決して法律違反ではなく、曲がりなりにも政府系の金融機関だったこともあり、法律と判例を遵守した運用になっていたと思ってます。”労働時間”とは明確に労働基準法上では明記されていないため判例をベースに運用は考えられるわけですが、基本的な考え方は以下の通りです。
ざっくり言うと、「業務命令で指揮命令下に置かれていない限りは残業とはいえない」というのが判例の言わんとするところだと解釈しています。世の中の多くの企業がこの業務命令で指揮命令下に置かれているかどうかという点を文字通り受け取り、出張の移動は一律に残業としてみなさないという会社が多い印象です。
例えば、前職時代僕は千葉県で営業をしていて、営業エリアはいすみ市や大多喜町、御宿町などだったのですが、客先のアポが8:30になっている場合は7:00過ぎには準備を済ませて職場のある千葉駅から社用車で現地に向かわないと間に合わないわけです。しかし、7:00~8:30までの1時間半はただ移動しているだけなので残業時間とは見做されないわけです。帰りも現地を17:30に出て帰社は19:00。合計で3時間拘束されてるわけなのですがいずれも残業になりません。「こんな時間かけてるのに残業代つかないの、なんかもやもやするなあ」なんて当時は思っていましたが、いかんせんマニュアルにもその通りに書いてあった(と思う)のでそこで思考停止していました。
優越的地位を濫用する石川の猛省
そして時は流れ、家業に帰ってきていざ自分が総務的なことをやる立場になったわけなのですが、不思議なもので当時のもやもやはどこかへ消えてしまい、「法律がそうなってるんだから残業代はつかないのが原則」なんて言い始めていた自分がいました。社員に説明を求められた時も「法律がまずこうなってるので」「判例で出てるので」なんて得意げに話してたわけです。
自分では法律を遵守して正しいことをやっていると信じていたわけなのですが、今思うと意思決定できる優越的地位があるのを良いことに都合の良いルールを運用する嫌な奴だったなあと今になって思っています笑。しかし、当時は直近決算で大赤字、売上は20年連続で減少、コロナ禍の真っ只中というトリプルパンチで、とにかく無駄なコストを削ってパフォーマンスを上げる事に躍起になっていて、法律を盾にとって何とかやりすごそうとしていました。
しかしあるとき、このような運用と石川の対応に痺れを切らしたスタッフが「いい加減にしてほしい」と啖呵を切ってきました。聞けば、本人は東京に行くためにの早朝に家を出て、新幹線でもPCで仕事をし、せっかく現地に行くのだからと予定を詰め込んで現地でギリギリまで仕事をして、夜遅くに名古屋に戻ってたそうです。おそらく昔の石川と同じように3時間とか4時間とか定時外の拘束時間があって、そこでも懸命に業務をしてくれていたと思われるのですが、それで残業がつけてもらえないのは辛い、と主張するわけです。
そう言われて最初は「いやでも判例でね…」と話してたのですが、スタッフと話し込んでいるうちにお互いヒートアップし、最後はこんな思いをさせてしまっているという事実とこんな歪みを作ってしまっている自分のことが情けなくなって泣けてきてしまいました。スタッフが幸せに働ける環境をつくることが自分の使命、なんていつも言ってるくせに口先だけじゃないかと。勇気をもって辛い胸中を吐露しながらも今まさに頑張ってくれてる人の想いに応えようともせず、更には自分がモヤモヤしていたようなことを他人に強要するなんていう理不尽の再生産をしている自分に嫌気がさしてしまったわけです。
これは残業の判定の話に限らないのですが、会社全体の責任を負う立場になると、どうしても会社を守る力学が働いてしまい、法律や判例、世の中の企業の一般的なやり方を見ながら、法律を守っているということを盾にして意思決定者という優越的地位を濫用してしまいがちだと思っています。会社を守るため、という言葉のパワーは強く、思考停止する方が楽ですからね。でも、そんな言い訳の下で働く人の感情を蔑ろにした配慮のないルール設計では誰も幸せになれないだろうなあと、いまでも猛省しています。
そのスタッフと話し合ったことがきっかけで、弊社ではそのあたりの運用を改めて定義し「原則として残業は本人の申し出に基づき判定する」としました。例えば、定時後に車で運転して帰っている間にお客様と電話したり事務連絡のメールをしたりしていれば、自分でその時間を計算して残業時間として申請して良い、というものです。さすがに新幹線でビールを飲んで寝ていた、というのは残業として判定できませんが笑、基本的には本人からの言い値に基づくという仕組みです。もちろん、このようなやり方は一般的にはモラルハザードの懸念はありますが、それでも弊社では残業時間の妥当性をチェックするような仕組みも作っていません。残業で仕事をしているかどうかは本人にしかわかりませんから、そのあたりを信じて委ねています。それから一年経つわけなのですが、今のところは特に問題なく運用出来ていると思いますし、スタッフもみんな気持ちよく出張できるようにな(ったと信じてお)り、その回数も総じて増加しています。結果として、無駄なモヤモヤに思考を巡らす時間が無くなって、行動の質も上がってると思うんですよね。勇気をもって変えようと向き合ってくれたスタッフには心から感謝ですし、こういう一つ一つの歪みを自分たちの想いを起点に正していくのが本当に大事だなと思っています。
法律の向こう側へ一歩踏み出すことの大切さ
つらつらと弊社の事例を書いてしまいましたが、言いたかったのは「法律が自分たちの組織における正しさとは限らない」ということです。思い返してみれば、一律の規程なんていうものは大人数の標準化が求められる大企業の手法であって、中小企業ではそんなやり方を踏襲する必要は全くない訳ですよね。法律はあくまで法律であり、企業はそれを上回る処遇を出せるのであれば基本的にはどんなことでもやっていいはずですし、法律をボトムラインとしながら自分たちがベストだと思う方法を貫いて実現していくことが本当の正しさなんだと思っています。そもそも、法律は社会全体の企業活動の最適化というところが起点であって、やっぱり自分たちのことは自分達の想いをスタート地点として決めるべきですよね。そして、意思決定する立場の人間はモラルハザードのリスクやコストアップなどのまだ存在していない幻影に翻弄される前に、まずは目の前で頑張ってくれている人たちのことを信じて委ねることが肝要なのではないでしょうか。たとえそれでコストが上がったとしても、歪みをスタッフ側に押し付けるのは組織としてあるべき姿じゃないし経営者の判断としては正しくないですよね。それはきっと合成の誤謬で、目の前の一人一人を大事にしない経営は、結果に結びつかないと思うんです。どこでもどんな方法でも稼げる今の時代に、人生の大事な時間を会社にベットしてくれているスタッフの想いに十分に応えることより優先すべきことなんてないと思っています。